その時、私には六十三銭しか持ち合せがなかったのです。 十銭白銅六つ一銭銅貨三つ。それだけを握って、大阪から東京まで線路伝いに歩いて行こうと思ったのでした。思えば正気の沙汰ではない。が、むこう見ずはもともと私にとっては生れつきの気性・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・この男はどこまで正気なのか、わからなかった。 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・ どちらも正気の沙汰ではないと、礼子はむしろ呆れかえった。 夏の短夜は、やがて明け初めて来た。が、寿子は依然として弾いている。蚊帳の中の庄之助は鉛のような沈黙を守っている。余りだまっているので、寿子は、父はもう眠ってしまったのかも知・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・喧嘩しながら居眠るほど、酔っていた男を正気の相手が刃物で、而も多人数で切ったのですから、ぼくの運がわるく、而も丹毒で苦しみ、病院費の為、……おやじの残したいまは只一軒のうちを高利貸に抵当にして母は、兄と争い乍ら金を送ってくれました。会社は病・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ どこまで正気なのか、本当に、呆れた主人であります。 太宰治 「十二月八日」
・・・俺はね、どんなに酔っても正気は失わん。きょうはお前たちのごちそうになったが、こんどは是非ともお前たちにごちそうする。俺のうちに来いよ。しかし、俺の家には何も無いぞ。鶏は、養ってあるが、あれは絶対につぶすわけにいかん。ただの鶏じゃないのだ。シ・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・あなたに面罵せられて、はじめて私は、正気になりました。自分の馬鹿を知りました。わかい研究生たちが、どんなに私の絵を褒めても、それは皆あさはかなお世辞で、かげでは舌を出しているのだという事に気がつきました。けれどもその時には、もう、私の生活が・・・ 太宰治 「水仙」
・・・ 殴らなくちゃいけねえ。正気にかえるまで殴らなくちゃいけねえ。数枝、振り向きもせず、泣き叫ぶ睦子を抱いて、階段をのぼりはじめる。和服の裾から白いストッキングをはいているのが見える。伝兵衛、あがく。あさ、必死にとどめる。・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・ 部屋へあがって、座ぶとんに膝を折って正坐し、「私は、正気ですよ。正気ですよ。いいですか? 信じますか?」 とにこりともせず、そう言った。 はてな? とも思ったが、私は笑って、「なんですか? どうしたのです。あぐらになさ・・・ 太宰治 「女神」
・・・幸いにまもなく正気づきはしたが、とにかくこれがちょうど元旦であったために特に大きな不祥事になってしまったのである。 正月元旦は年に一度だから幸いである。もしこれが一年に三度も四度もあったらたいへんであろうと思われるが、しかしいっそのこと・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
出典:青空文庫