・・・ 洋一はあんな看護婦なぞに、母の死期を数えられたと思うと、腹が立って来るよりも、反って気がふさいでならないのだった。「それがさ。お父さんは今し方、工場の方へ行ってしまったんだよ。私がまたどうしたんだか、話し忘れている内にさ。」 ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・そして、病気ではご飯たきも不自由やろから、家で重湯やほうれん草炊いて持って帰れと、お辰は気持も仏様のようになっており、死期に近づいた人に見えた。 お辰とちがって、柳吉は蝶子の帰りが遅いと散々叱言を言う始末で、これではまだ死ぬだけの人間に・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・吸筒が倒れる、中から水――といえば其時の命、命の綱、いやさ死期を緩べて呉れていようというソノ霊薬が滾々と流出る。それに心附いた時は、もうコップ半分も残ってはいぬ時で、大抵はからからに乾燥いで咽喉を鳴らしていた地面に吸込まれて了っていた。・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・れを家の者が笑って話したとき、吉田は家の者にもやはりそんな気があるのじゃないかと思って、もうちょっとその魚を大きくしてやる必要があると言って悪まれ口を叩いたのだが、吉田はそんなものを飲みながらだんだん死期に近づいてゆく娘のことを想像すると堪・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・しかし老人は真面目で「私も自分の死期の解らぬまでには老耄せん、とても長くはあるまいと思う、其処で実は少し折入って貴公と相談したいことがあるのじゃ」 かくてその夜は十時頃まで富岡老人の居間は折々談声が聞え折々寂と静まり。又折々老人の咳・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・人間は死期が近づくにつれて、どんなに俗な野暮天でも、奇妙に、詩というものに心をひかれて来るものらしい。辞世の歌とか俳句とかいうものを、高利貸でも大臣でも、とかくよみたがるようではないか。 鶴は、浮かぬ顔して、首を振り、胸のポケットから手・・・ 太宰治 「犯人」
・・・しかし例えば医師が重病患者の死期を予報するような意味においてならばあるいは将来可能であろうと思う。しかし現在の地震学の状態ではそれほどの予報すらも困難であると私は考えている。現在でやや可能と思われるのは統計的の意味における予報である。例えば・・・ 寺田寅彦 「地震雑感」
・・・その薬は致死量でないにしても、薬を与えれば、多少死期を早くするかもしれない。それゆえやらずにおいて苦しませていなくてはならない。従来の道徳は苦しませておけと命じている。しかし医学社会には、これを非とする論がある。すなわち死に瀕して苦しむもの・・・ 森鴎外 「高瀬舟縁起」
・・・なぜ死期の近い病人の体を蝨が離れるように、あの女は離れないだろう。それに今の飾磨屋の性質はどうだ。傍観者ではないか。傍観者は女の好んで択ぶ相手ではない。なぜと云うに、生活だの生活の喜だのと云うものは、傍観者の傍では求められないからである。そ・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・ こうして、彼の妻はその死期の前を、花園の人々に愛されただけ、眼下の漁場に苦しめられた。しかし、花園は既にその山上の優れた位地を占めた勝利のために、何事にも黙っていなければならなかった。彼の妻は日々一層激しく咳き続けた。 ・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫