・・・麻の掻巻をかけたお律は氷嚢を頭に載せたまま、あちら向きにじっと横になっていた。そのまた枕もとには看護婦が一人、膝の上にひろげた病床日誌へ近眼の顔をすりつけるように、せっせと万年筆を動かしていた。 看護婦は洋一の姿を見ると、ちょいと媚のあ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・そこで枕を氷枕に換えて、上からもう一つ氷嚢をぶら下げさせた。 すると二時頃になって、藤岡蔵六が遊びに来た。到底起きる気がしないから、横になったまま、いろいろ話していると、彼が三分ばかりのびた髭の先をつまみながら、僕は明日か明後日御嶽へ論・・・ 芥川竜之介 「田端日記」
・・・妻は私をその書斎へ寝かして、早速氷嚢を額へのせてくれました。 私が正気にかえったのは、それから三十分ばかり後の事でございます。妻は、私が失神から醒めたのを見ると、突然声を立てて泣き出しました。この頃の私の言動が、どうも妻の腑に落ちないと・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・新蔵はやっと長い悪夢に似た昏睡状態から覚めて見ると、自分は日本橋の家の二階で、氷嚢を頭に当てながら、静に横になっていました。枕元には薬罎や検温器と一しょに、小さな朝顔の鉢があって、しおらしい瑠璃色の花が咲いていますから、大方まだ朝の内なので・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ しかるに重体の死に瀕した一日、橘之助が一輪ざしに菊の花を活けたのを枕頭に引寄せて、かつてやんごとなき某侯爵夫人から領したという、浅緑と名のある名香を、お縫の手で焚いてもらい、天井から釣した氷嚢を取除けて、空気枕に仰向けに寝た、素顔は舞・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・さえ常とは変らなかったのに――当人ももうだいぶ好くなったから明日あたりから床を上げましょうとさえ言ったのに――今、眼の前に露子の姿を浮べて見ると――浮べて見るのではない、自然に浮んで来るのだが――頭へ氷嚢を載せて、長い髪を半分濡らして、うん・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 本田家の当主は、家族の者と主治医とに守られて、陶製のもののように、何も考えることも感じることも出来なくなった頭を、氷枕と氷嚢との間に挟んでいた。 家族の人たち、当主の妻と、その子供である、二人の息子と三人の娘とは、何かを待つような・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・ 台所では二つの氷嚢に入れる氷をかく音が妙に淋しく響き主夫婦は、額をつき合わせて何か引きしまった顔をして相談して居るのを見ると娘は、じいっとして居られない様な気持になって、何事も手につきかねた風に、あてもなくあっちこっちと家中を歩き廻っ・・・ 宮本百合子 「黒馬車」
・・・一昨年の一月から六月十三日に母の危篤により帰る迄の間に私は猛烈な心臓脚気にかかっていて、胸まで痺れ、氷嚢を当て、坐っていた。 私の心臓が慢性的に弱ったのは、この第二のことからです。その時は、オリザニンの注射その他の治療で直そうとし、・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
今年の一月から半年ばかりの間、私は大変非人間的条件の下で生活することを余儀なくされた。 今になって見ると、その不自由な生活の終りに近くなってからのことであるが、私は心臓が弱って氷嚢を胸に当てていないと、肺動脈の鬱血で咳・・・ 宮本百合子 「生活の道より」
出典:青空文庫