・・・ 椿岳の画はかくの如く淵原があって、椿年門とはいえ好む処のものを広く究めて尽く自家薬籠中の物とし、流派の因襲に少しも縛られないで覚猷も蕪村も大雅も応挙も椿年も皆椿岳化してしまった。かつかくの如く縦横無礙に勝手気儘に描いていても、根柢には・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 師匠の真似ばかりしていた古来の職工的日本画家は別問題として、何らかの流派を開いた名画家の作品を見ると、たとえそれが品の悪い題材を取扱った浮世絵のようなものであっても、一口に云って差しつかえのないと思う特徴は、複雑な自然人生の中から何ら・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・ しかし自分が平生不思議に思うことは、昔でも今でも俳人の世界ではいろいろの党派のようなものができて、そうして各流派流派の「主張」とか「精神」とかいうものを固執して他流を排斥しあるいは罵詈するようなこともかなり多い。門外の風来人から見ると・・・ 寺田寅彦 「俳諧瑣談」
・・・すべての怪異も同様である。前者は集積し凝縮し電子となりプロトーンとなり、後者は一つにかたまり合って全能の神様になり天地の大道となった。そうして両者ともに人間の創作であり芸術である。流派がちがうだけである。 それゆえに・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・細帯しどけなき寝衣姿の女が、懐紙を口に銜て、例の艶かしい立膝ながらに手水鉢の柄杓から水を汲んで手先を洗っていると、その傍に置いた寝屋の雪洞の光は、この流派の常として極端に陰影の度を誇張した区劃の中に夜の小雨のいと蕭条に海棠の花弁を散す小庭の・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ かつては六尺町の横町から流派の紋所をつけた柿色の包みを抱えて出て来た稽古通いの娘の姿を今は何処に求めようか。久堅町から編笠を冠って出て来る鳥追の三味線を何処に聞こうか。時代は変ったのだ。洗髪に黄楊の櫛をさした若い職人の女房が松の湯とか・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・しかれどもその芭蕉を尊崇するに至りては衆口一斉に出づるがごとく、檀林等流派を異にする者もなお芭蕉を排斥せず、かえって芭蕉の句を取りて自家俳句集中に加うるを見る。ここにおいてか芭蕉は無比無類の俳人として認められ、また一人のこれに匹敵する者ある・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・現代は、アララギがかつて現代短歌史にわけもった積極の意義の故に、その歩みを制約する流派としての諸問題が、見なおされる時期に入っていると思われますが、いかがなものでしょうか。『仰日』の作者のみならず、わたくしたちは、散文・短歌何によらず、・・・ 宮本百合子 「歌集『仰日』の著者に」
・・・民主主義文学運動は、自身のグループを一つの文学流派として存在させるだけでは意味がないと思う。過去のプロレタリア文学は、単なる一流派ではなくて、各国においてその国の労働者階級の階級的自覚とともに、文学全体の認識に多くの新しい水平線をひらいた。・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
・・・かつても文学の流派と流派との間の論争や衝突は日本の文学に於ても激しいものがなくはなかった。しかし、それらの時期に文学に従事していた人々は、いずれも根本に於ては文学そのものの人間生活に於ける価値に確信を持っていたのであるし、その確信の上に立っ・・・ 宮本百合子 「今日の文学の鳥瞰図」
出典:青空文庫