・・・三十幾年のむかし、洲崎の遊里に留連したころ、大門前から堀割に沿うて東の方へ行くとすぐに砂村の海辺に出るのだという事を聞いて、漫歩したことがあったが、今日記憶に残っているのは、蒹葭の唯果も知らず生茂った間から白帆と鴎の飛ぶのを見た景色ばかりで・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・山国の人は海を見て悦び、海辺の人は山を見て楽しむ。生来、その耳目に慣れずして奇異なればなり。而してそのこれを悦び、これを楽しむの情は、その慣れざるのはなはだしきにしたがってますます切にして、往々判断の明識を失う者多し。仏蘭西の南部は葡萄の名・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
・・・いかにも鎌倉らしい町や海辺の情景が、冬で人が少いため、一種独特の明るい闊達さで陽子の心に映った。「冬の鎌倉、いいわね」「いいでしょ? いるとすきになるところよ、何だか落つくの」 庭に小松の繁茂した小高い砂丘をとり入れた、いかにも・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ ヴォルフの写真を集めた本は、何年か前に「海辺にて」という題だったか、ヴォルフ夫人と幼い女の児とを海辺の様々な情景で撮したのを見たことがあった。その時から写真にもこういう味いがあり得るのだという印象をつよくのこされた。 日頃カメラを・・・ 宮本百合子 「ヴォルフの世界」
海辺の五時夕暮が 静かに迫る海辺の 五時白木の 質素な窓わくが室内に燦く電燈とかわたれの銀色に隈どられて不思議にも繊細な直線に見える。黝みそめた若松の梢にひそやかな濤のとどろきが通いもしよ・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
・・・頻りに尾を振り、前になり、後になり、真白な泡になってサーと足許に迫って来る潮を一向恐れず元気に汀を走るのが海辺の犬らしかった。父がやがて、「気をつけなさい。狂犬だといけないよ」と注意した。 晴子が、「狂犬だって!」と、大笑い・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・それは海辺の難所である。また山を越えると、踏まえた石が一つ揺げば、千尋の谷底に落ちるような、あぶない岨道もある。西国へ往くまでには、どれほどの難所があるか知れない。それとは違って、船路は安全なものである。たしかな船頭にさえ頼めば、いながらに・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・今仲の町で遊客に睨みつけられる烏も昔は海辺四五町の漁師町でわずかに活計を立てていた。今柳橋で美人に拝まれる月も昔は「入るべき山もなし」、極の素寒貧であッた。実に今は住む百万の蒼生草,実に昔は生えていた億万の生草。北は荒川から南は玉川まで、嘘・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・斜面をなしている海辺の地の上に、神の平和のようなものが広がっている。何もかも故郷のドイツなどとは違う。更けても暗くはならない、此頃の六月の夜の薄明りの、褪めたような色の光線にも、また翌日の朝焼けまで微かに光り止まない、空想的な、不思議に優し・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・しかし彼らが社会の裏に住む無恥な女を描き、性慾の衝動に動く浮薄な男を描き、あるいは山国海辺、あるいは大都会小都会の風物情緒を描く時には、それがあらゆる階級の男女や東西南北の諸地方を材料とするにかかわらず、またそれぞれの境遇や土地をおのおのそ・・・ 和辻哲郎 「「自然」を深めよ」
出典:青空文庫