・・・冬の日の光が屋内まで輝き満ちるようなことは三年の旅の間なかったことだ。この季節に、底青く開けた空を望み得るということも、めずらしい。私の側へ来てささやいて居たのは、たしかに武蔵野の「冬」だった。「冬」はそれから毎年のように訪ねて来たが、・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・あるだけは残らず拾ったけれどやっと、片手に充ちるほどしかない。 下りてみると章坊が淋しそうに山羊の檻を覗いて立っている。「兄さんどこへ行ったの」と聞く。「おい、貝殻をやろうか章坊」というと、素気なくいらないと言う。私は不・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・私はこれをひいていると、歌の文句は何も知らないのにかかわらず、いつも名状の出来ないような敬虔と哀愁の心持が胸に充ちるのを覚える。 この曲の終りに近づいた頃に、誰か裏木戸の方からはいって来て縁側に近よる気はいがした。振り向いてみると花壇の・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・落ちた花は朽ち腐れて一種甘いような強い香気が小庭に満ちる。ここらに多い大きな蠅が勢いのよい羽音を立ててこれに集まっている。力強い自然の旺盛な気が脳を襲うように思われた。この花の散る窓の内には内気な娘がたれこめて読み物や針仕事・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・この、それ自身にははなはだ平凡な光景を思い出すと、いつでも涼風が胸に満ちるような気がするのである。なぜだかわからない。こんな平凡な景色の記憶がこんなに鮮明に残っているには、何かわけがあったに相違ないが、そのわけはもう詮索する手づるがなくなっ・・・ 寺田寅彦 「涼味数題」
・・・そうして更に無数の囁が騒然として空間に満ちる。電光が針金の如き白熱の一曲線を空際に閃かすと共に雷鳴は一大破壊の音響を齎して凡ての生物を震撼する。穹窿の如き蒼天は一大玻璃器である。熾烈な日光が之を熱して更に熱する時、冷却せる雨水の注射に因って・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 思い出の涙は一行書く毎に頬を流れ、よしそうでないにしろ私の心は悲しさに満ちる。 けれ共私は書かないでは居られない。 不思議な事である。 斯うやって書くのは長い年月が立った後もなおその時の気持も失いたくないためでは無かろうか・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ *心に 満ち充ちる愛も金がないので 表し得ない時のあるのを又その時の如何に多いかを此頃知り憂いを覚ゆ。父の上を思い、いろいろの なぐさめや悦びを与えたい。――それは、勿論 ものばかりが・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・ 四辺に満ちる声は一つになった歎いである。 私に守られつつ大火輪はしずかに眠りに入った。 草の葉は溜息をつき森の梢は身ぶるって夜の迫るのを待つ。 四辺には灰色と歎いと怨がみちて居る―― けれ共私は―― ひややかにがん・・・ 宮本百合子 「小鳥の如き我は」
・・・我心に満ちる愛やまごころを思えばそれの与えられぬのが不思議に思う。彼と云う、我ただ一人の愛しい人は私に、ひたすら、涙を流させるために私の前に現れたのか 涙ながれちるわが涙どこにそそごう――私・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
出典:青空文庫