・・・勿論この内にも、狐狸とか他の動物の仕業もあろうが、昔から言伝えの、例の逢魔が時の、九時から十一時、それに丑満つというような嫌な時刻がある、この時刻になると、何だか、人間が居る世界へ、例の別世界の連中が、時々顔を出したがる。昔からこの刻限を利・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・妖気おのずから場に充つ。稚児二人引戻さる。画家 いい児だ。ちょっと頼まれておくれ。夫人 可愛い、お稚児さんね。画家 奥さん、爺さんと並んでお敷きなさい。夫人 まあ、勿体ない。画家 いや、その位な事は何でもありません。・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・「禍害なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、汝らは酒杯と皿との外を潔くす、然れども内は貪慾と放縦とにて満つるなり。禍害なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども、内は死人の骨とさまざまの穢とに満・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・地に満つ人の子のむれを、うらめしそうに、見おろしていた。 手の札、からりと投げ捨てて、笑えよ。三十日。 雨の降る日は、天気が悪い。三十一日。ナポレオンの欲していたものは、全世界ではなかった。タンポポ一輪の信頼・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・梨花淡白柳深青 〔梨花は淡白にして柳は深青柳絮飛時花満城 柳絮の飛ぶ時 花 城に満つ惆悵東欄一樹雪 惆悵す 東欄一樹の雪人生看得幾清明 人生 看るを得るは幾清明ぞ〕 何如璋は明治の儒者文人の間には重・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・「愚作堂に満つ」云々。この絵が大臣賞を貰っているのは大変面白いことです。これは普通の落選もある文展の方です。又散歩に出たらエハガキを買って来てお目にかけましょう。 十一月二十二日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より〕 十一・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・東京で桜が散った後は、もう一雨で初夏の香が街頭に満つが、ここでは、こうやって今日一日降りくらす、明日晴れる、翌日は又雨で、次の日晴れる――ああ、何か一種異様の愛着をもって自然が推移するのだ。それ故、一月近くいて見ると、ここを去るのが変にのこ・・・ 宮本百合子 「夏遠き山」
・・・アメリカにもイギリスにも婦人の通俗作家、探偵小説の作者はあんなにいて、それだけの文化と文学の土台から評論家として立っている婦人は恐らく十指に満つまい。 文学においても、婦人の活動の最低の線がどこまで拡がり且つ上って来ているかということが・・・ 宮本百合子 「文学と婦人」
・・・塵よりいでて塵に返る有限の人の身に光明に充つる霊を宿し、肉と霊との円満なる調和を見る時羽なき二足獣は、威厳ある「人」に進化する。肉は袋であり霊は珠玉である。袋が水に投げらるる時は珠もともに沈まねばならぬ。されど袋が土に汚れ岩に破らるるとも珠・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫