・・・彼の癇癖は彼の身辺を囲繞して無遠慮に起る音響を無心に聞き流して著作に耽るの余裕を与えなかったと見える。洋琴の声、犬の声、鶏の声、鸚鵡の声、いっさいの声はことごとく彼の鋭敏なる神経を刺激して懊悩やむ能わざらしめたる極ついに彼をして天に最も近く・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・左の土手から古榎が無遠慮に枝を突き出して日の目の通わぬほどに坂を蔽うているから、昼でもこの坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善い心持ではない。榎は見えるかなと顔を上げて見ると、あると思えばあり、無いと思えば無いほどな黒い者に雨の注ぐ音・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・と、西宮はわざと手荒く唐紙を開け、無遠慮に屏風の中を覗くと、平田は帯を締め了ろうとするところで、吉里は後から羽織を掛け、その手を男の肩から放しにくそうに見えた。「失敬した、失敬した。さア出かけよう」「まアいいさ」「そうでない、そ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・左れば記者が特に婦人を警しめて淫れたる事を見聴きす可らずと禁じたる其の教訓は、男子をして無遠慮に淫るゝの自由を得せしめたるに過ぎず。此れを内に幽閉せんとして彼れを外に奔逸せしむ。一家の害悪を止むるに非ずして却てこれを教唆するものなり。然かの・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・一 女性は最も優美を貴ぶが故に、学問を勉強すればとて、男書生の如く朴訥なる可らず、無遠慮なる可らず、不行儀なる可らず、差出がましく生意気なる可らず。人に交わるに法あり。事に当りて論ず可きは大に論じて遠慮に及ばずと雖も、等しく議論するにも・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・などといった。無遠慮な口を、岡本はまるで聞えなかったように、「忠一さま、お茶さし上げましょうか」と、丁寧な声と眼差しとで手をさし出す。その蒼白い頬に浮かんでいる軽蔑を、陽子は苦しいほど感じて見ることがあった。…… 紅茶を運ん・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・言葉はわからないが無遠慮な笑い声だけが廊下じゅうに高く反響して聞えている三四人の女たちの喋り声。例によって、九時ごろまでつづく騒々しいざわめきを聴きながら、どこやら落付かない心持でベッドの上に坐っている。いよいよ明日かえると思うと何だか落付・・・ 宮本百合子 「寒の梅」
・・・君の胸臆は明白に私の前に展開せられて時としては無遠慮を極めることがある。Verblueffend に真実を説くことがある。私はいつもそれを甘んじ受けて、却って面白く感じた。 殆ど毎日逢って、時としては終日一しょにいることさえあるので、F・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・そして孫右衛門の無遠慮なような世辞を面白がって、得意の笊棋の相手をさせて帰した。 お佐代さんが国から出た年、仲平は小川町に移り、翌年また牛込見附外の家を買った。値段はわずか十両である。八畳の間に床の間と廻り縁とがついていて、ほかに四・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・初めのうちは、弟子たちが漱石に対して無遠慮であることから、非常に自由な雰囲気を感じたし、やがてそのうちに、前に言ったような弟子たちの甘えに気づいて、それを諧謔の調子で軽くいなしている漱石の態度に感服したのである。楯を突いていた連中でも、たま・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫