・・・そのために焼かずとも済むものまでも焼けるに任せた、という傾向のあったのもやはり事実である。しかしそれらの直接の原因の根本に横たわる重大な原因は、ああいう地震が可能であるという事実を日本人の大部分がきれいに忘れてしまっていたということに帰すべ・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・初め女房や娘と共に大通りへ逃げたが家の焼けるまでにはまだ間があろうと、取残した荷物を一ツなりとも多く持出そうと立戻ったなり返って来なかったという。 浅草公園はいつになったら昔の繁華にかえることができるのであろう。観音堂が一立斎広重の名所・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・わが額の焼ける事は」という。願う事の叶わばこの黄金、この珠玉の飾りを脱いで窓より下に投げ付けて見ばやといえる様である。白き腕のすらりと絹をすべりて、抑えたる冠の光りの下には、渦を巻く髪の毛の、珠の輪には抑えがたくて、頬のあたりに靡きつつ洩れ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・けれども火事で焼けるのはあんまり楽だ。何かも少しひどいことがないだろうか。」 又その隣りが答えました。「戸のあいてる時をねらって赤子の頭を突いてやれ。畜生め。」 梟の坊さんは、じっとみんなの云うのを聴いていましたがこの時しずかに・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・自分は、垢と病気で蒼黒く焼けるような今野の手を確り握り、やつれ果てた頬を撫でた。「何だか……ボーとなって来たよ」「頭、ひどく痛い?」「頸の……ここが痛い……体じゅう何だか……」 自分は、全く畜生 と思い自分の体までむしられる・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 静かな、すみとおった空気の中に、いもの焼ける匂いが微かに漂いはじめた。「そろそろやけて来たらしいね」「……もうすこうしね」「そっちの、こげやしないか」「そうかしら」 実験用テーブルの端へもたれのある布張椅子をひきよ・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・夕方の六時から真夜中まで働き、昼は寝、捏粉の発酵するのを待つ間とパンが炉の中で焼けるのを待つ間しかゴーリキイは本が読めなかった。書けなかった。彼はその間でしばしば考えた。「一体、俺はこれからどうなるのだろう。」 この重い時期に、彼にとっ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの発展の特質」
・・・爺いの背中で、上野の焼けるのを見返り見返りして、田圃道を逃げたのだ。秩父在では己達を歓迎したものだ。己の事を江戸の坊様と云っていた。」「なんでも江戸の坊様に御馳走をしなくちゃあならないというので、蕎麦に鳩を入れて食わしてくれたっけ。鴨南・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
出典:青空文庫