・・・兄はただ母に叱られたのが、癇癪に障っただけかも知れない。もう一歩臆測を逞くするのは、善くない事だと云う心もちもある。が、兄が地方へ行って以来、ふとあの眼つきを思い出すと、洋一は兄の見ている母が、どうも彼の見ている母とは、違っていそうに思われ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・何しろお松は癇癪を起すと、半之丞の胸ぐらをとって引きずり倒し、麦酒罎で擲りなどもしたものです。けれども半之丞はどう言う目に遇っても、たいていは却って機嫌をとっていました。もっとも前後にたった一度、お松がある別荘番の倅と「お」の字町へ行ったと・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・ 保吉はとうとう癇癪を起した。父さえ彼の癇癪には滅多に戦を挑んだことはない。それはずっと守りをつづけたつうやもまた重々承知しているが、彼女はやっとおごそかに道の上の秘密を説明した。「これは車の輪の跡です。」 これは車の輪の跡です・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・それだけで癇癪の種には十分だ。彼れはいきなり笠井に飛びかかって胸倉をひっつかんだ。かーっといって出した唾を危くその面に吐きつけようとした。 この頃浮浪人が出て毎晩集会所に集って焚火なぞをするから用心が悪い、と人々がいうので神社の世話役を・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・戸部さんは吃りで、癇癪持ちで、気むずかしやね。いつまでたってもあなたの画は売れそうもないことね。けれどもあなたは強がりなくせに変に淋しい方ね。……戸部 畜生……とも子 悪口になったら、許してちょうだい。でも私は心から皆さんにお礼し・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・そして無性に癇癪を起こし続けた。「馬鹿野郎! 卑怯者! それは手前のことだ。手前が男なら、今から取って返すがいい。あの子供の代わりに言い開きができるのは手前一人じゃないか。それに……帰ろうとはしないのか」 そう自分で自分をたしなめて・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・「何、旦那さん、癇癪持の、嫉妬やきで、ほうずもねえ逆気性でね、おまけに、しつこい、いんしん不通だ。」「何?……」「隠元豆、田螺さあね。」「分らない。」「あれ、ははは、いんきん、たむしだてば。」「乱暴だなあ。」「こ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・おらあ片一方で聞いててせえ少癇癪に障って堪えられなかったよ。え、爺さん、聞きゃおめえの扮装が悪いとって咎めたようだっけが、それにしちゃあ咎めようが激しいや、ほかにおめえなんぞ仕損いでもしなすったのか、ええ、爺さん」 問われて老車夫は吐息・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・おじいさんや、おばあさんは、その可愛い孫の我儘とか癇癪持とか、或は、臆病とかの欠点をよく知っています。お話のなかに、自然とそれを自得して直すように、面白く語られるうちにも用意を忘れません。真に、愛がなくてはできぬことです。そして、この教化は・・・ 小川未明 「童話を書く時の心」
・・・と胸のなかの苦痛をそのまま掴み出して相手に叩きつけたいような癇癪が吉田には起こって来るのだった。 しかし結局はそれも「不安や」「不安や」という弱々しい未練いっぱいの訴えとなって終わってしまうほかないので、それも考えてみれば未練とは言って・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
出典:青空文庫