・・・突然こなたに向きて、しからば問いまいらせん、愛の盗人もし何の苦悩をも自ら覚えで浮世を歌い暮らさばいかに、これも何かの報酬あるべきか。 二郎は高く笑いてわが顔をながめ、わが答えをまつらんごとし。問いの主はわれ聞き覚えある声とは知れど思いい・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ それは、たしかに、盗人の三分の理にも似ているが、しかし、私の胸の奥の白絹に、何やらこまかい文字が一ぱいに書かれている。その文字は、何であるか、私にもはっきり読めない。たとえば、十匹の蟻が、墨汁の海から這い上って、そうして白絹の上をかさ・・・ 太宰治 「父」
・・・女中は、盗人の如く足音を忍ばせて持ち運んで来た。「おしずかに、お飲みになって下さいよ。」「心得ている。」 鶴は、大闇師のように、泰然とそう答えて、笑った。 その下には紺碧にまさる青き流れ、 その上には黄金なす陽の・・・ 太宰治 「犯人」
・・・ 震源の所在を知りたがる世人は、おそらく自分の宅に侵入した盗人を捕えたがると同様な心理状態にあるものと想像される。しかし第一に震源なるものがそれほど明確な単独性をもった個体と考えてよいか悪いかさえも疑いがある、のみならず、たとえいわゆる・・・ 寺田寅彦 「地震雑感」
・・・これは、設計では挿すことになっていたのを、つい挿すのを忘れたのか、手を省いて略したのか、それともいったん挿してあったのを盗人か悪戯な子供が抜き去ったか、いずれかであろうと思われた。このボルトが差してあったら多分この屋根は倒れないですんだかも・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・女車掌が蟋蟀のような声で左右の勝景を紹介し、盗人厩の昔話を暗誦する。一とくさり述べ終ると安心して向うをむいて鼻をほじくっているのが憐れであった。十国峠の無線塔へぞろぞろと階段を上って行く人の群は何となく長閑に見えた。 熱海へ下る九十九折・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・そうしていきなり盗人に迫った。其時は既に盗ではなかった其不幸な青年は急遽其蜀黍の垣根を破って出た。体は隣の桑畑へ倒れた。太十は一歩境を越して打ち据えた。其第一撃が右の腕を斜に撲った。第二撃が其後頭を撲った。それがそこに何も支うるものがなかっ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・しかしもしあの時のあなたが、いつかお書きになった「若い盗人」と云う小説の中の青年のような早熟の人でおいでになったら、わたくしはきっとあなたのおいでをお断り申しただろうと存じます。 あなたとわたくしとの中は、夢より外に一歩も踏み出さない中・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・こせ、おのが庵の壁の頽れかかれるをつくろはす来つる男のこまめやかなる者にて、このわたりはさておけよかめりとおのがいふところどころをもゆるしなう、机もなにもうばひとりてこなたかなたへうつしやる、おのれは盗人の入たらん夜のここちしてうろたへつつ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・だから莓の季節には、からたちの枝を押しわけて、子供が莓盗人に這いこんだりしたが、夜になれば淋しい淋しい道で、藤堂さんの森の梟がいつもないていた。 夏目漱石の家が、泥棒に入られたのは、千駄木時代のことだったと思う。あの頃、千駄木あたりは、・・・ 宮本百合子 「からたち」
出典:青空文庫