・・・ 縞目は、よく分らぬ、矢絣ではあるまい、濃い藤色の腰に、赤い帯を胸高にした、とばかりで袖を覚えぬ、筒袖だったか、振袖だったか、ものに隠れたのであろう。 真昼の緋桃も、その娘の姿に露の濡色を見せて、髪にも、髻にも影さす中に、その瓜実顔・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 五 紫の矢絣に箱迫の銀のぴらぴらというなら知らず、闇桜とか聞く、暗いなかにフト忘れたように薄紅のちらちらする凄い好みに、その高島田も似なければ、薄い駒下駄に紺蛇目傘も肖わない。が、それは天気模様で、まあ分る。け・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・りころり日の下開山の栄号をかたじけのうせんこと死者の首を斬るよりも易しと鯤、鵬となる大願発起痴話熱燗に骨も肉も爛れたる俊雄は相手待つ間歌川の二階からふと瞰下した隣の桟橋に歳十八ばかりの細そりとしたるが矢飛白の袖夕風に吹き靡かすを認めあれはと・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・羽織も着物も同じ矢絣模様の銘仙で、うすあかい外国製の布切のショオルが、不似合いに大きくその上半身を覆っていた。質屋の少し手前で夫婦はわかれた。 真昼の荻窪の駅には、ひそひそ人が出はいりしていた。嘉七は、駅のまえにだまって立って煙草をふか・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・妹は二十歳前後の小柄な痩せた女で、矢絣模様の銘仙を好んで着ていた。あんな家庭を、つつましやかと呼ぶのであろう。ほぼ半年くらい住まって、それから品川のほうへ越していったけれど、その後の消息を知らない。僕にとっては、その当時こそ何かと不満もあっ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・「矢絣の銘仙があったじゃないか。あれを着たら、どうだい?」「いいわよ、いいわよ。これでいいの。」心の内は生死の境だ。危機一髪である。 姿を消した自分の着物が、どんなところへ持ち込まれているのか、少しずつ節子にもわかって来た。質屋・・・ 太宰治 「花火」
・・・鍔広の藁帽を阿弥陀に冠ってあちら向いて左の手で欄の横木を押さえている。矢絣らしい着物に扱帯を巻いた端を後ろに垂らしている、その帯だけを赤鉛筆で塗ってある。そうした、今から見れば古典的な姿が当時の大学生には世にもモダーンなシックなものに見えた・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・ 一二秒、立ち澱み、やがておつやさんは、矢絣の後姿を見せながら、しおしお列を離れて、あちらに行った。 彼女は素直に、顔を洗いに行ったのだ。 暫くして、皆席についてしまってから、水で、無理に顔をこすったおつやさんは、赤むけになった・・・ 宮本百合子 「追想」
・・・ 今日昼間、町の四辻に、活動写真館の前に群れ動いて居た色どりの中に、確にその大きい矢絣りも交って居た。――「あのお客さん――おつれなあに」 小さい堅気の女中は切口上で「女工さんでございます」と答えた。山のある町の人々は、工場・・・ 宮本百合子 「町の展望」
・・・みのえは、肩揚げのある矢絣の羽織の肩に自分の顎をのせるようにして油井を見ながら、眼と唇とで笑った。油井は、ちらりとみのえの笑いを照りかえしたが、素早く口元をたてなおし、睨むような真似をした。みのえは、少し体を動かして母親の方を向いた。 ・・・ 宮本百合子 「未開な風景」
出典:青空文庫