・・・黄塵とは蒙古の春風の北京へ運んで来る砂埃りである。「順天時報」の記事によれば、当日の黄塵は十数年来未だ嘗見ないところであり、「五歩の外に正陽門を仰ぐも、すでに門楼を見るべからず」と言うのであるから、よほど烈しかったのに違いない。然るに半三郎・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・三十分汽車に揺られた後、さらにまた三十分足らず砂埃りの道を歩かせられるのは勿論永久の苦痛である。苦痛?――いや、苦痛ではない。惰力の法則はいつのまにか苦痛という意識さえ奪ってしまった。彼は毎日無感激にこの退屈そのものに似た断崖の下を歩いてい・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・彼は思わず首を縮めながら、砂埃の立つのを避けるためか、手巾に鼻を掩っていた、田口一等卒に声をかけた。「今のは二十八珊だぜ。」 田口一等卒は笑って見せた。そうして相手が気のつかないように、そっとポケットへ手巾をおさめた。それは彼が出征・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・門の外では、生暖い風が、桜の花と砂埃とを、一つに武者窓へふきつけている。林右衛門は、その風の中に立って、もう一応、往来の右左を見廻した。そうして、それから槍で、一同に左へ行けと相図をした。 二 田中宇左衛門 林右衛門・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・北も南も吹荒んで、戸障子を煽つ、柱を揺ぶる、屋根を鳴らす、物干棹を刎飛ばす――荒磯や、奥山家、都会離れた国々では、もっとも熊を射た、鯨を突いた、祟りの吹雪に戸を鎖して、冬籠る頃ながら――東京もまた砂埃の戦を避けて、家ごとに穴籠りする思い。・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ その窓を見向いた片頬に、颯と砂埃を捲く影がさして、雑所は眉を顰めた。「この風が、……何か、風……が烈しいから火の用心か。」 と唐突に妙な事を言出した。が、成程、聞く方もその風なれば、さまで不思議とは思わぬ。「いえ、かねてお・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・九時十時となると、蝉が往来から見える高い梢で鳴きだす、だんだん暑くなる。砂埃が馬の蹄、車の轍に煽られて虚空に舞い上がる。蝿の群が往来を横ぎって家から家、馬から馬へ飛んであるく。 それでも十二時のどんがかすかに聞こえて、どことなく都の空の・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・小屋のすぐ前に屋台店のようなものが出来ていて、それによごれた叺を並べ、馬の餌にするような芋の切れ端しや、砂埃に色の変った駄菓子が少しばかり、ビール罎の口のとれたのに夏菊などさしたのが一方に立ててある。店の軒には、青や赤の短冊に、歌か俳句か書・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・生温く帽を吹く風に、額際から煮染み出す膏と、粘り着く砂埃りとをいっしょに拭い去った一昨日の事を思うと、まるで去年のような心持ちがする。それほどきのうから寒くなった。今夜は一層である。冴返るなどと云う時節でもないに馬鹿馬鹿しいと外套の襟を立て・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・一太は残りの納豆も買って貰った。一太は砂埃りを蹴立てるような元気でまた電車に乗り、家に帰った。一太は空っぽの竹籠を横腹へ押しつけたり、背中に廻してかついだりしつつ、往来を歩いた。どこへ廻しても空の納豆籠はぴょんぴょん弾んで一太の小さい体を突・・・ 宮本百合子 「一太と母」
出典:青空文庫