・・・彼はついに枕を噛みながら、彼自身の快癒を祈ると共に、併せて敵瀬沼兵衛の快癒も祈らざるを得なかった。 が、運命は飽くまでも、田岡甚太夫に刻薄であった。彼の病は重りに重って、蘭袋の薬を貰ってから、まだ十日と経たない内に、今日か明日かと云う容・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・もしお子さんが大事ならば、偶像に祈るのはおやめなさい。」 しかし女は古帷子の襟を心もち顋に抑えたなり、驚いたように神父を見ている。神父の怒に満ちた言葉もわかったのかどうかはっきりしない。神父はほとんどのしかかるように鬚だらけの顔を突き出・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・――ここの大池の中洲の島に、かりの法壇を設けて、雨を祈ると触れてな。……袴、練衣、烏帽子、狩衣、白拍子の姿が可かろう。衆人めぐり見る中へ、その姿をあの島の柳の上へ高く顕し、大空へ向って拝をされい。祭文にも歌にも及ばぬ。天竜、雲を遣り、雷を放・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・豪雨だ……そのすさまじき豪雨の音、そうしてあらゆる方面に落ち激つ水の音、ひたすら事なかれと祈る人の心を、有る限りの音声をもって脅すかのごとく、豪雨は夜を徹して鳴り通した。 少しも眠れなかったごとく思われたけれど、一睡の夢の間にも、豪雨の・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・文学の忠僕たる小生は切に諸君の健闘を祈る。 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ 祈る女の前に賽銭箱、頭の上に奉納提灯、そして線香のにおいが愚かな女の心を、女の顔を安らかにする。 そこで、ほっと一安心して、さて「めをとぜんざい」でも、食べまひょか。 大阪の人々の食意地の汚なさは、何ごとにも比しがたい。いまは・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・突然襲って来る焦躁にたまりかねて、あっと叫び声をあげ祈るように両手も差し上げるのだが、しかし天井からは埃ひとつ落ちて来ない。祈っても駄目だ、この病的な生活を洗い浄めて練歯磨の匂いのように新鮮なすがすがしい健康な生活をしなければならぬと、さま・・・ 織田作之助 「道」
・・・彼は電車の中で、今にも昏倒しそうな不安な気持を感じながらどうか誰も来ていないで呉れ……と祈るように思う。先客があったり、後から誰か来合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入った、一層圧倒された惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ―― 彼・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 老松樹ちこめて神々しき社なれば月影のもるるは拝殿階段の辺りのみ、物すごき木の下闇を潜りて吉次は階段の下に進み、うやうやしく額づきて祈る意に誠をこめ、まず今日が日までの息災を謝し奉り、これよりは知らぬ国に渡りて軍の巷危うきを犯し、露に伏・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ そもそもまたかく祈る所以の者は、自然は決して彼を愛せし者に背かざりしをわれ知ればなり。われらの生涯を通じて歓喜より歓喜へと導くは彼の特権なるを知ればなり。彼より享くる所の静と、美と、高の感化は、世の毒舌、妄断、嘲罵、軽蔑をしてわれらを・・・ 国木田独歩 「小春」
出典:青空文庫