・・・』 ここまで話して来て江藤は急に口をつぐんで、対手の顔をじっと見ていたが、思い出したように、『そうだッけ、あの老爺さんを写生するとよかッた、』と言って膝を拍った。この近在の百姓が御料地の森へ入って、枯れ枝を集めるのは、それは多分禁制・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・「不潔な哀れげな爺さんだ。」「君は、その爺さんと知り合いかって訊ねられただろう?」松本は意味ありげにきいた。「いや。」「露西亜語を教わりに行く振りをして、朝鮮人のところへ君は、行っとったんじゃないんか?」「いつさ。」・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ヤマカン会社で、地方のなにも知らん慾ばりの爺さんどもを、一カ年五割の配当をすると釣って金を出させ、そいつをかき集めて、使いこんで行くというやり方だった。ジメ/\した田の上に家を建てゝ、そいつを貸したり、荷馬車屋の親方のようなことをやったり、・・・ 黒島伝治 「自伝」
・・・チョン髷を結った阿爺さんが鍛ってくれたのだ。高瀬はその鉄の目方の可成あるガッシリとした柄のついた鍬を提げて、家の裏に借りて置いた畠の方へ行った。 不思議な風体の百姓が出来上った。高瀬は頬冠り、尻端折りで、股引も穿いていない。それに素足だ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・破れた唐紙の陰には、大黒頭巾を着た爺さんが、火鉢を抱えこんで、人形のように坐っている。真っ白い長い顎髯は、豆腐屋の爺さんには洒落すぎたものである。「おかしかしかし樫の葉は白い。今の娘の歯は白い」 お仙は若い者がいるので得意になって歌・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ おどおどして、そうして、どこかずるそうな、顔もからだもひどく小さい爺さんだ。大酒飲みに違いない、と私は同類の敏感で、ひとめ見て断じた。顔の皮膚が蒼く荒んで、鼻が赤い。 私は無言で首肯いてベンチから立ち上り、郵便局備附けの硯箱のほう・・・ 太宰治 「親という二字」
・・・十八になって、向島の待合の下女をつとめ、そこの常客である新派の爺さん役者をだまそうとして、かえってだまされ、恥ずかしさのあまり、ナフタリンを食べて、死んだふりをして見せた。待合から、ひまを出されて、五年ぶりで生家へ帰った。生家では、三年まえ・・・ 太宰治 「古典風」
・・・荒川改修工事がこの爺さんには何となく不平らしい。 この日は少し曇っていて、それでいて道路の土が乾き切っているので街道は塵が多く、川越街道の眺めが一体に濁っていた。 巣鴨から上野へと本郷通りを通るときに、また新しい経験をした。毎週一、・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・ロンドンの宿に同宿していた何とかいう爺さんが、夕飯後ストーヴの前で旨そうにパイプをふかしながら自分等の一行の田所氏を捉まえて、ミスター・ターケドーロと呼びかけてはしきりにアイルランド問題を論じていた。このターケドーロが出ると日本人仲間は皆笑・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
四五日前に、善く人にじゃれつく可愛い犬ころを一匹くれて行った田町の吉兵衛と云う爺さんが、今夜もその犬の懐き具合を見に来たらしい。疳癪の強そうな縁の爛れ気味な赤い目をぱちぱち屡瞬きながら、獣の皮のように硬張った手で時々目脂を拭いて、茶の・・・ 徳田秋声 「躯」
出典:青空文庫