・・・ いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱・・・ 梶井基次郎 「桜の樹の下には」
・・・ 倫理学の根本問題と倫理学史とを学ぶときわれわれは人間存在というものの精神的、理性的構造に神秘の感を抱くとともに、その社会的共同態の生活事実の人間と起源を同じくする制約性を承認せずにはいられない。それとともに人間生活の本能的刺激、生活資・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・今日の文化の段階にまで達したる人間性の精神的要素と、ならびに人間性に禀具するらしい可能的神秘の側面で、われわれの恋愛の要請とは一体どんなものであるかを探求するのこそ進歩的恋愛論の本質的任務でなくてはならぬ。これに比べれば恋愛の社会的基礎の討・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・火のはたらきは神秘霊奇だ。その火のはたらきをくぐって僕等の芸術は出来る。それを何ということだ。鋳金の工作過程を実地にご覧に入れ、そして最後には出来上ったものを美術として美術学校から献上するという。そううまく行くべきものだか、どうだか。むかし・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・深山に入り、高山、嶮山なんぞへ登るということになると、一種の神秘的な興味も多いことです。その代りまた危険も生じます訳で、怖しい話が伝えられております。海もまた同じことです。今お話し致そうというのは海の話ですが、先に山の話を一度申して置きます・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・けれども同時にその源が神秘なものでも荘厳なものでもなくなって、第一義真理の魅力を失い、崇拝にも憧憬にも当たらなくなってしまう。四 知識で押して行けば普通道徳が一の方便になるとともに、その根柢に自己の生を愛するという積極的な目・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ミステフィカシオンが、フランスのプレッシュウたちの、お道楽の一つであったそうですから、兄にも、やっぱり、この神秘捏造の悪癖が、争われなかったのであろうと思います。 兄がなくなったのは、私が大学へはいったとしの初夏でありましたが、そのとし・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・の庭の池を神秘めかしてかいたのだろう。それでは、事実、あれが「いかぬ老頭」の池に棲息していたのに違いない。身のたけ一丈、頭の幅三尺というのには少し誇張もあるだろうが、とにかく、あの、大――山椒魚がいたのだ! そうしていま、この私の目の前の、・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・これが神秘でなくて何であろうか。この実在の怪物と、たとえばウェルズの描いた火星の人間などを比較しても、人間の空想の可能範囲がいかに狭小貧弱なものであるかを見せつけられるような気がする。 これを見た目で「素浪人忠弥」というのをのぞいて見た・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉を開いて見せるからである。 頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければなら・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
出典:青空文庫