・・・ 旅窶れのした書生体の男が自分の前に立った。片隅へ身を寄せて、上り框のところへ手をつき乍ら、何か低い声で物を言出した時は、自分は直にその男の用事を看て取った。聞いて見ると越後の方から出て来たもので、都にある親戚をたよりに尋ねて行くという・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・まあ大変に窶れているじゃあないか。そんなになったからには息張っていては行けないよ。息張るの高慢ぶるのという事は、わたしなんぞはとっくに忘れてしまったのだ。世に人鬼は無いものだ。つい構わずにどの内へでも這入って御覧よ。」 老人はそこの家の・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・恋に窶れて、少し荒んだ陰影を、おのが姿に与えたかった。 Aという、その海のある小都会に到着したのは、ひるすこしまえで、私はそのまま行き当りばったり、駅の近くの大きい割烹店へ、どんどんはいってしまった。私にも、その頃はまだ、自意識だのなん・・・ 太宰治 「デカダン抗議」
・・・猫も二三度飼ったけれど皆酷く窶れて鳴声も出せないように成って死んだ。猫がないので鼠は多かった。竹藪をかぶった太十の家は内も一杯煤だらけで昼間も闇い程である。天井がないので真黒な太い梁木が縦横に渡されて見える。乾いた西風の烈しい時は其煤がはら・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「青白い細君の病気に窶れた姿がスーとあらわれたと云うんだがね――いえそれはちょっと信じられんのさ、誰に聞かしても嘘だろうと云うさ。現に僕などもその手紙を見るまでは信じない一人であったのさ。しかし向うで手紙を出したのは無論こちらから死去の・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・面影は青白く窶れてはいるが、どことなく品格のよい気高い婦人である。やがて錠のきしる音がしてぎいと扉が開くと内から一人の男が出て来て恭しく婦人の前に礼をする。「逢う事を許されてか」と女が問う。「否」と気の毒そうに男が答える。「逢わせま・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・のきわだった目のまわりに暗い暈のかかったような、素肌に袷を着たような姿を撮され、私はその写真からもこの若い女優が今度の事に関りあったことに対しまだきまらない世間の人気や批判を人知れず気にしているらしい窶れを感じ、哀れに思ったのであった。・・・ 宮本百合子 「昨今の話題を」
・・・ さめざめと母の涙が窶れた頬を濡らすのであった。「きいてたの? 幸坊――」 幸雄は聞いている。一間隔てた六畳に幸雄の真鍮燦く寝台があった。その上にゆったりと仰臥したまま、永久正気に戻ることない幸雄が襖越しに、「いいよ、心配し・・・ 宮本百合子 「牡丹」
出典:青空文庫