・・・――北海道の俊寛は海岸に一日中立つて、内地へ行く船を呼んでいることは出来ない。寒いのだ! しかし何故彼等は停車場へ行くのだ。ストーヴがあるからだ。――だが、そればかりではなくて、彼等は「青森」とか、「秋田」とか、「盛岡」とか――自分達の国の・・・ 小林多喜二 「北海道の「俊寛」」
・・・目に入りおふさぎでござりまするのとやにわに打ちこまれて俊雄は縮み上り誠恐誠惶詞なきを同伴の男が助け上げ今日観た芝居咄を座興とするに俊雄も少々の応答えが出来夜深くならぬ間と心むずつけども同伴の男が容易に立つ気色なければ大吉が三十年来これを商標・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・この病弱な私が、ともかくも住居を移そうと思い立つまでにこぎつけた。私は何かこう目に見えないものが群がり起こって来るような心持ちで、本棚がわりに自分の蔵書のしまってある四畳半の押入れをもあけて見た。いよいよこの家を去ろうと心をきめてからは、押・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・と、初やは、やっと廻りくどい話を切ってあちらへ立つ。藤さんはもう先達も聞いたから、今夜はそんなにおかしくはないと言ったけれど、それでもやはりはじめてのように笑っていた。 話が途絶える。藤さんは章坊が蒲団へ落した餡を手の平へ拾う。影法師が・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・あとから、あとから、腹が立つ。いまでも、私は、充分に怒っている。おまえは、いったいに、ひとをいたわることを知らない女だ。 ――すみません。あたし、若かったのよ。かんにんしてね。もう、もう、あたし、判ったわ。犬なんか、問題じゃなかったのね・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ポルジイのドリスを愛することは、知り合いになってから、月日が立つと共に、深くなって来る。どんなに面白い女か、どんな途方もない落想のある女かと云うことが、段々知れて来るのである。貴族仲間の禁物は退屈と云うものであるに、ポルジイはこの女と一しょ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・もうすぐにパリイへ立つ予定なのだから、なるたけ急いでベルリンの見物をしてしまわなくてはならないのである。ホテルを出ようとすると、金モオルの附いた帽子を被っている門番が、帽を脱いで、おれにうやうやしく小さい包みを渡した。「なんだい」とおれ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・「彼が壇上に立つと聴衆はもうすぐに彼の力を感ずる。ドイツ語がわかる分らぬは問題でない。ともかくも力強く人に迫るある物を感ずる。」「重大な事柄を話そうとする人にふさわしいように、ゆっくり、そして一語一句をはっきり句切って話す。しかし少・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・兄の家では、大阪から見舞いに来ていた、××会社の重役である嫂の弟が、これも昨日山からおりて、今日帰るはずで立つ支度をしていた。「ここもなかなか暑いね」道太は手廻りの小物のはいっているバスケットを辰之助にもってもらい、自分は革の袋を提げて・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・人間が懺悔して赤裸々として立つ時、社会が旧習をかなぐり落して天地間に素裸で立つ時、その雄大光明な心地は実に何ともいえぬのである。明治初年の日本は実にこの初々しい解脱の時代で、着ぶくれていた着物を一枚剥ねぬぎ、二枚剥ねぬぎ、しだいに裸になって・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
出典:青空文庫