・・・ たね子は頬杖をついたまま、髪を結う元気さえ起らずにじっと番茶ばかり眺めていた。 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・僕は熱もあったから、床の中に横たわったまま、伯母の髪を結うのを眺めていた。そのうちにいつかひきつけたとみえ、寂しい海辺を歩いていた。そのまた海辺には人間よりも化け物に近い女が一人、腰巻き一つになったなり、身投げをするために合掌していた。それ・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・度逢っても、姿こそ服装こそ変りますが、いつも人柄に似合わない、あの、仰向けに結んで、緋や、浅黄や、絞の鹿の子の手絡を組んで、黒髪で巻いた芍薬の莟のように、真中へ簪をぐいと挿す、何転進とか申すのにばかり結う。 何と絵蝋燭を燃したのを、簪で・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・……私の隣の松さんは、熊野へ参ると、髪結うて、熊野の道で日が暮れて、あと見りゃ怖しい、先見りゃこわい。先の河原で宿取ろか、跡の河原で宿取ろか。さきの河原で宿取って、鯰が出て、押えて、手で取りゃ可愛いし、足で取りゃ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・(咽喉に巻いたる古手拭を伸して、覆面す――さながら猿轡のごとくおのが口をば結う。この心は、美女に対して、熟柿臭きを憚るなり。人形の竹を高く引えい。夫人、樹立の蔭より、半ば出でてこの体を窺いつつあり。人形使 えい。えい。夫・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・小児の時から髪を結うのが好きで、商売をやめてから、御存じの通り、銀杏返しなら人の手はかりませんし、お源の島田の真似もします。慰みに、お酌さんの桃割なんか、お世辞にも誉められました。めの字のかみさんが幸い髪結をしていますから、八丁堀へ世話にな・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・母は帯を結うて蒲団の上に起きていた。僕が前に坐ってもただ無言でいる。見ると母は雨の様な涙を落して俯向いている。「お母さん、まアどうしたんでしょう」 僕の詞に励まされて母はようやく涙を拭き、「政夫、堪忍してくれ……。民子は死んでし・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・「吉弥だッてそうでさア、ね、小遣いを立てかえてあるし、髢だッて、早速髷に結うのにないと言うので、借してあるから、持って来るはずだ、わ」「目くらになっちゃア来られない、さ」 僕の返事は煮えきらなかったが、妻の熱心は「目くら」の一言・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・なんせ、痩せおとろえひょろひょろの細い首しとるとこへもって来て、大きな髪を結うとりまっしゃろ。寝ぼけた眼で下から見たら、首がするする伸びてるように思うやおまへんか。ところで、なんぜ油を嘗めよったかと言うと、いまもいう節で、虐待されとるから油・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・二月の初めには風呂にも入る、髪も結うようになった。車屋のばあさんなどは「もうスッカリ御全快だそうで」と、ひとりできめてしまって、そっとふところから勘定書きを出して「どうもたいへんに、お早く御全快で」と言う。医者の所へ行って聞くと、よいとも悪・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
出典:青空文庫