・・・この次の時代をつくるわれわれの子孫といえども、果してよく前の世のわれわれのように廉価を以て山海の美味に飽くことができるだろうか。昭和廿二年十月 ○ 松杉椿のような冬樹が林をなした小高い岡の麓に、葛飾という京・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・滋養に富んだ牛肉とお行儀のいい鯛の塩焼を美味のかぎりと思っている健全な朴訥な無邪気な人たちは幸福だ。自分も最う一度そういう程度まで立戻る事が出来たとしたら、どんなに万々歳なお目出度かりける次第であろう……。惆悵として盃を傾くる事二度び三度び・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・掘りたてですこぶる美味だ」「すこぶる剛健な味がしやしないか――おい姉さん、肴は何もないのかい」「あいにく何もござりまっせん」「ござりまっせんは弱ったな。じゃ玉子があるだろう」「玉子ならござりまっす」「その玉子を半熟にして・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・の落になっているのですが、私から見ると、この学習院という立派な学校で、立派な先生に始終接している諸君が、わざわざ私のようなものの講演を、春から秋の末まで待ってもお聞きになろうというのは、ちょうど大牢の美味に飽いた結果、目黒の秋刀魚がちょっと・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・ 第二は植物性食品はどう考えても動物性食品より美味しくない。これは何としても否定することができない。元来食事はただ営養をとる為のものでなく又一種の享楽である。享楽と云うよりは欠くべからざる精神爽快剤である。労働に疲れ種々の患難に包まれて・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・ウオー、ウオー、美味そうな子を入口の幅が狭いため食えないのを怒って彼は盛に唸りつつ嗅ぎ廻る。私は段々本気になり、抱いている子に「大丈夫よ、大丈夫よ」と囁く。太ったもう一人の弟は被った羽織の下で四足で這いながら自分が本当の虎になったような威力・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・ 一太は、楊枝の先に一粒ずつ黒豆を突さし、沁み沁み美味さ嬉しさを味いつつ食べ始める。傍で、じろじろ息子を見守りながら、ツメオも茶をよばれた。 これは雨が何しろ樋をはずれてバシャバシャ落ちる程の降りの日のことだが、それ程でなく、天気が・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ポーポー湯気がたって、美味そうな匂いがする。スープです。 別の当番の子供たちが、それを順ぐりにアルミの鉢に入れてくばる。 そこへ、「子供たち!」と、さっきの白髪の女先生が入って来ました。「一寸しずかにして下さい。そして、・・・ 宮本百合子 「従妹への手紙」
・・・納豆、野菜など、なかなか美味です。きょうテーブルをこしらえて貰います。 十月十一日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県上林温泉より〕 十月十一日、日曜日、晴。 十月三日づけのお手紙を昨日いただきました。私の生活のうまいやりか・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・彼女は昼の残りの肉を ナイフでたたき乍ら――この肉上げましょうか、食べたくなる程美味しい肉ですよ 全くさ それでも三週間キャベジの煮たのだけたべてやっと百グラムの牛肉が食べられるようになったのだから、彼女はその肉も結局は食べ終る。・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
出典:青空文庫