・・・『八犬伝』中の竜に関するレクチュアー、『胡蝶物語』の中の酒茶論等と例を挙げるまでもないことである。しかるに馬琴の知識はその主要なるものは全部机の上で書物から得たものである。事柄の内容のみならずその文章の字句までも、古典や雑書にその典拠を求む・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・何しろ胡蝶さんが、あの人に附文をしたんですさかえ」「胡蝶は僕も一番芸者らしい女だと思う」「神田で生れたんですもの。なかなか気前のいい妓や。延若を喰わえだして、温泉宿から電報で家へお金を言ってこようという人ですもの。ああいうのが芸者で・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・偃蹇として澗底に嘯く松が枝には舞い寄る路のとてもなければ、白き胡蝶は薄き翼を収めて身動きもせぬ。「無心ながら宿貸す人に申す」とややありてランスロットがいう。「明日と定まる仕合の催しに、後れて乗り込む我の、何の誰よと人に知らるるは興なし。・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・支那の哲人荘子は、かつて夢に胡蝶となり、醒めて自ら怪しみ言った。夢の胡蝶が自分であるか、今の自分が自分であるかと。この一つの古い謎は、千古にわたってだれも解けない。錯覚された宇宙は、狐に化かされた人が見るのか。理智の常識する目が見るのか。そ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・新様の歌も詠み、慷慨激烈の歌も詠み、和暢平遠の歌も詠み、家屋の内をも歌に詠み、広野の外をも歌に詠み、高山彦九郎をも詠み、御魚屋八兵衛をも詠み、侠家の雪も詠み、妓院の雪も詠み、蟻も詠み、虱も詠み、書中の胡蝶も詠み、窓外の鬼神も詠み、饅頭も詠み・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・秋風に吹きなやまされて力なく水にすれつあがりつ胡蝶のひらひらと舞い出でたる箱根のいただきとも知らずてやいと心づよし。遥かの空に白雲とのみ見つるが上に兀然として現われ出でたる富士ここからもなお三千仞はあるべしと思うに更にその影を幾許の深さに沈・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・ 蕪村の句の絵画的なるものは枚挙すべきにあらねど、十余句を挙ぐれば木瓜の陰に顔たくひすむ雉かな釣鐘にとまりて眠る胡蝶かなやぶ入や鉄漿もらひ来る傘の下小原女の五人揃ふて袷かな照射してさゝやく近江八幡かな葉うら/・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 静かにふして淡く打ち笑む白々と小石のみなる河床に 菜の花咲きて春の日の舞ふ水車桜の小枝たわめつゝ ゆるくまはれり小春日の村白壁の山家に桃の影浮きて 胡蝶は舞はでそよ風の吹くなつかし・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・ 胡蝶の翅を飾る、あの美くしい粉ばかりを綴ったように、日の光りぐあいでどんな色にでも見える衣を被って、渦巻く髪に真赤なてんとう虫を止らせている乙女は、やがてユーラスの見たこともないライアをとりあげました。 そして、七匹の青蜘蛛が張り・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・ぶり哥のよみぶりを批評しながらなごりおしげに桜の梢をふりかえりふりかえり女達は沢山かたまって薬玉のようになって細殿の暗い方に消えて行く、一番しんがりの一群の男のささきげんでつみもなく美くしい直衣の袖を胡蝶のように舞の引く手、さす手もあやしげ・・・ 宮本百合子 「錦木」
出典:青空文庫