・・・ ――あら、看板ですわ―― いや、正のものの膝栗毛で、聊か気分なるものを漾わせ過ぎた形がある。が、此処で早速頬張って、吸子の手酌で飲った処は、我ながら頼母しい。 ふと小用場を借りたくなった。 中戸を開けて、土間をずッと奥へ、・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
一 木曾街道、奈良井の駅は、中央線起点、飯田町より一五八哩二、海抜三二〇〇尺、と言い出すより、膝栗毛を思う方が手っ取り早く行旅の情を催させる。 ここは弥次郎兵衛、喜多八が、とぼとぼと鳥居峠を越すと、日・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・晩年大河内子爵のお伴をして俗に柘植黙で通ってる千家の茶人と、同気相求める三人の変物揃いで東海道を膝栗毛の気散じな旅をした。天龍まで来ると川留で、半分落ちた橋の上で座禅をしたのが椿岳の最後の奇の吐きじまいであった。 臨終は明治二十二年九月・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・「そりゃ、女性ですもの。たまには、着飾って映画も見たいわ。」「きょうは、映画か?」「そう。もう見て来たの。あれ、何ていったかしら、アシクリゲ、……」「膝栗毛だろう。ひとりでかい?」「あら、いやだ。男なんて、おかしくって。・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・ 博文館の『文芸倶楽部』はその年の正月『太陽』と同時に第一号を出したので、わたくしは確にこれをも読んだはずであるが、しかし今日記憶に残っているものは一つもない、帝国文庫の『京伝傑作集』や一九の『膝栗毛』、または円朝の『牡丹燈籠』や『塩原・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・出入する客の野趣を帯びた様子などに、どうやら『膝栗毛』の世界に這入ったような、いかにも現代らしくない心持になる。これもわが家に妻孥なく、夕飯の膳に人の帰るのを待つもののいないがためである。 ○ そもそもわたくし・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・十返舎一九の『膝栗毛』も篇を重ねて行くに従い、滑稽の趣向も人まちがいや、夜這いが多くなり、遂に土瓶の中に垂れ流した小便を出がらしの茶とまちがえて飲むような事になる。戦後の演芸が下がかってくるのも是非がない。 浅草の劇場では以上述べたよう・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・疲れたる膝栗毛に鞭打ちてひた急ぎにいそぐに烏羽玉の闇は一寸さきの馬糞も見えず。足引きずる山路にかかりて後は人にも逢わず家もなし。ふりかえれば遥かの山本に里の灯二ッ三ッ消えつ明りつ。折々颯と吹く風につれて犬の吠ゆる声谷川の響にまじりて聞こゆる・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
出典:青空文庫