・・・その上俯向きに前へ倒れて、膝頭を摺剥くと云う騒ぎです。いや、もう少し起き上るのが遅かったら、砂煙を立てて走って来た、どこかの貨物自働車に、轢かれてしまった事でしょう。泥だらけになった新蔵は、ガソリンの煙を顔に吹きつけて、横なぐれに通りすぎた・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・両方の膝頭は白い切れで巻いてあった。その白い色が凡て黒い中にはっきりと仁右衛門の眼に映った。石炭酸の香はそこから漂って来るのだった。彼れは火の気のない囲炉裡の前に、草鞋ばきで頭を垂れたまま安座をかいた。馬もこそっとも音をさせずに黙っていた。・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 私が向き直ると、ヤコフ・イリイッチは一寸苦がい顔をして、汗ばんだだぶだぶな印度藍のズボンを摘まんで、膝頭を撥きながら、突然こう云い出した。 おい、船の胴腹にたかって、かんかんと敲くからかんかんよ、それは解せる、それは解せるがかんか・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・その手で、挫ぐばかり確と膝頭を掴んで、呼吸が切れそうな咳を続けざまにしたが、決然としてすっくと立った。「ちょっと御挨拶を申上げます、……同室の御婦人、紳士の方々も、失礼ながらお聞取を願いとうございます。私は、ここに隣席においでになる、窈・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・手にわるさに落ちたと見えて札は持たず、鍍金の銀煙管を構えながら、めりやすの股引を前はだけに、片膝を立てていたのが、その膝頭に頬骨をたたき着けるようにして、「くすくすくす。」 続けて忍び笑をしたのである。 立続けて、「くッくッ・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・色の鯛を一枚、しるし半纏という処を、めくら縞の筒袖を両方大肌脱ぎ、毛だらけの胸へ、釣身に取って、尾を空に、向顱巻の結びめと一所に、ゆらゆらと刎ねさせながら、掛声でその量を増すように、魚の頭を、下腹から膝頭へ、じりじりと下ろして行くが、「・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・手と膝頭を擦り剥いただけでしたが、私は手ぶらで帰っても浜子に折檻されない口実ができたと思ったのでしょう、通りかかった人が抱き起しても、死んだようになっていました。 ところが、尋常三年生の冬、学校がひけて帰ってくると、新次の泣声が聴えたの・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 私はこう言って羽織と足袋を脱ぎ、袴をつけて、杉の樹間の暗い高い石段を下り、そこから隣り合っている老師のお寺の石段を、慄える膝頭を踏ん張り、合掌の姿勢で登って行ったのであった。春以来二三度独参したことがあるがいつも頭からひやかされるので・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・俺は膝頭をがたがた慄わしながら、『やっぱし苦しいと見えて、また出やがったよ』と、泣笑いしたい気持で呟くのだ。僕は僕の亡霊が、僕の虐待に堪えかねては、時々本体から脱けでるものと信じていたんだからね」「そうですかねえ。そんなこともあるもので・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・前が開て膝頭が少し出ていても合そうとも仕ない、見ると逆上せて顔を赤くして眼は涙に潤み、頻りに啜泣を為ている。「どうしたと云うのだ、え?」と磯は問うたが、この男の持前として驚いて狼狽えた様子は少しも見えない。「磯さん私は最早つくづく厭・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
出典:青空文庫