・・・――若し彼女がうけいれてくれるならば、竹びしゃく作りになって永久に田舎に止まるだろう。労働者トリオの最後の一人となって朽ちるだろう。――そしてその方が三吉の心を和ませさえした。満足した母親の顔と一緒に、彼女の影像がかぎりなくあたたかに映って・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ さればカッフェーの創設者たる松山画伯にして、狡智に長けたること、若しかの博文館が二十年前に出版した書物の版権を、今更云々して賠償金を取立てるがように、カッフェーという名称を用いる都下の店に対して一軒一軒、賠償金を徴発していたら、今頃は・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・細君の答に「御申越の借家は二軒共不都合もなき様被存候えば私倫敦へ上り候迄双方共御明け置願度若し又それ迄に取極め候必要相生じ候節は御一存にて如何とも御取計らい被下度候とあった。カーライルは書物の上でこそ自分独りわかったような事をいうが、家をき・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
此作は、名古屋刑務所長、佐藤乙二氏の、好意によって産れ得たことを附記す。――一九二三、七、六―― 一 若し私が、次に書きつけて行くようなことを、誰かから、「それは事実かい、それとも幻想かい、・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・天より我に与へ給へる家の貧は我仕合のあしき故なりと思ひ、一度嫁しては其家を出ざるを女の道とする事、古聖人の訓也。若し女の道に背き、去らるゝ時は一生の恥也。されば婦人に七去とて、あしき事七ツ有り。一には、しゅうとしゅうとめに順ざる女は去べし。・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・されば火を見ては熱を思い、水を見ては冷を思い、梅が枝に囀ずる鶯の声を聞ときは長閑になり、秋の葉末に集く虫の音を聞ときは哀を催す。若し此の如く我感ずる所を以て之を物に負わすれば、豈に天下に意なきの事物あらんや。 斯くいえばとて、強ちに実際・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・王の有様は少しも苦しそうに見えぬ。若し余も死なねばならぬならば、斯ういう工合にしたら窮屈で無くすむであろうと思うた事がある。併し幾ら斯んなにして見た所が棺の蓋を蔽てコンコンと釘を打ってしまったら、それでおしまいである。棺の中で生きかえって手・・・ 正岡子規 「死後」
・・・「私は饑饉でみんなが死ぬとき若し私の足が無くなることで饑饉がやむなら足を切っても口惜しくありません。」 アラムハラドはあぶなく泪をながしそうになりました。「そうだ。おまえには歩くことよりも物を言うことよりももっとしないでいられな・・・ 宮沢賢治 「学者アラムハラドの見た着物」
・・・昨夜、Y、気をもんで、若し午前二時に着くのならホテルへ部屋がいる。ウラジヴォストクの某氏へ電報打とうと云って、頼信紙に書きまでしたが、大抵五時だろうと云う車掌の言葉に電報は中止した。 ――明日どうせせわしいんだから、ちゃんと今日荷物しと・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・それは人間の力の及ばぬ事ではあるまいか。若しそうだと、その洗立をするのが、世間の無頓著よりは危険ではあるまいか。倅もその危険な事に頭を衝っ込んでいるのではあるまいか。倅は専門の学問をしているうちに、ふとそう云う問題に触れて、自分も不安になっ・・・ 森鴎外 「かのように」
出典:青空文庫