・・・ Mは体を濡らし濡らし、ずんずん沖へ進みはじめた。僕はMには頓着せず、着もの脱ぎ場から少し離れた、小高い砂山の上へ行った。それから貸下駄を臀の下に敷き、敷島でも一本吸おうとした。しかし僕のマツチの火は存外強い風のために容易に巻煙草に移ら・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ 一切の準備の終った時、役人の一人は物々しげに、三人の前へ進みよると、天主のおん教を捨てるか捨てぬか、しばらく猶予を与えるから、もう一度よく考えて見ろ、もしおん教を捨てると云えば、直にも縄目は赦してやると云った。しかし彼等は答えない。皆・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・燕は王子のありがたいお志に感じ入りはしましたが、このりっぱな王子から金をはぎ取る事はいかにも進みません。いろいろと躊躇しています。王子はしきりとおせきになります。しかたなく胸のあたりの一枚をめくり起こしてそれを首尾よく寡婦の窓から投げこみま・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・それは二つの道のうち一つだけを選み取って、傍目もふらず進み行く人の努力である。かの赤き道を胸張りひろげて走る人、またかの青き道をたじろぎもせず歩む人。それをながめている人の心は、勇ましい者に障られた時のごとく、堅く厳しく引きしめられて、感激・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・ 看護婦はわが医学士の前に進みて、「それでは、あなた」「よろしい」 と一言答えたる医学士の声は、このとき少しく震いを帯びてぞ予が耳には達したる。その顔色はいかにしけん、にわかに少しく変わりたり。 さてはいかなる医学士も、・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・押丁等の服装、傍聴席の光線の工合などが、目を遮り、胸を蔽うて、年少判事はこの大なる責任のために、手も自由ならず、足の運びも重いばかり、光った靴の爪尖と、杖の端の輝く銀とを心すともなく直視めながら、一歩進み二歩行く内、にわかに颯と暗くなって、・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・自分は泳ぐ気味にして台所の軒へ進み寄った。 幸に家族の者が逃げる時に消し忘れたものらしく、ランプが点して釣り下げてあった。天井高く釣下げたランプの尻にほとんど水がついておった。床の上に昇って水は乳まであった。醤油樽、炭俵、下駄箱、上げ板・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 友人にでも出会ったら大変と、親しみのある東京の往来を、疎く、気恥かしいように進みながら、僕は十数年来つれ添って来た女房を売りに行くのではないかという感じがあった。 僕は再び国府津へ行かないで――もし行ったら、ひょッとすると、旅の者・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・この心掛けをもってわれわれが毎年毎日進みましたならば、われわれの生涯は決して五十年や六十年の生涯にはあらずして、実に水の辺りに植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌き枝を生じてゆくものであると思います。けっして竹に木を接ぎ、木に竹を接ぐ・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 物質文化は、日に進みつゝあるにかゝわらず、この世の中が、人間的に向上したと言えないのは、真の道徳的社会から、却って、遠ざかりつゝあるがためです。この意味に於て、世の中は、進歩したと言えぬばかりでなく、精神的方面を閑却するために、文化戦・・・ 小川未明 「文化線の低下」
出典:青空文庫