・・・女はすぐさま汽車に乗って、懐しい東京へ着くが早いか、懐しい信行寺の門前へやって来ました。それがまたちょうど十六日の説教日の午前だったのです。「女は早速庫裡へ行って、誰かに子供の消息を尋ねたいと思いました。しかし説教がすまない内は、勿論和・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・それからまた半月ばかりの後、千枝子夫婦は夫の任地の佐世保へ行ってしまったが、向うへ着くか着かないのに、あいつのよこした手紙を見ると、驚いた事には三度目の妙な話が書いてある。と云うのは千枝子夫婦が、中央停車場を立った時に、夫婦の荷を運んだ赤帽・・・ 芥川竜之介 「妙な話」
・・・ 家に着くともう妹のために床がとってありました。妹は寝衣に着かえて臥かしつけられると、まるで夢中になってしまって、熱を出して木の葉のようにふるえ始めました。お婆様は気丈な方で甲斐々々しく世話をすますと、若者に向って心の底からお礼をいわれ・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・A 理窟は何にでも着くさ。ただ世の中のことは一つだって理窟によって推移していないだけだ。たとえば、近頃の歌は何首或は何十首を、一首一首引き抜いて見ないで全体として見るような傾向になって来た。そんなら何故それらを初めから一つとして現さない・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 椅子を差置かれた池の汀の四阿は、瑪瑙の柱、水晶の廂であろう、ひたと席に着く、四辺は昼よりも明かった。 その時打向うた卓子の上へ、女の童は、密と件の将棋盤を据えて、そのまま、陽炎の縺るるよりも、身軽に前後して樹の蔭にかくれたが、枝折・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・孔雀のような夫人のこの盛粧はドコへ行っても目に着くので沼南の顔も自然に知られ、沼南夫人と解って益々夫人の艶名が騒がれた。 九段の坂下の近角常観の説教所は本とは藤本というこの辺での落語席であった。或る晩、誰だかの落語を聴きに行くと、背後で・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・「東京から乗ったのです。そして、つぎのつぎの、停車場で下りますの。」「着くと暗くなりますの。」 おばあさんは、それぎりだまってしまいました。雪の曠野を走って、ようやく、目的地に着きました。しかし、急に思いたってきたので、通知もし・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・町へ着くには着いても、今夜からもう宿を取るべき宿銭もない。いや、午飯を食うことすらできないのだ。昨夜は夜通し歩いて、今朝町の入口で蒸芋を一銭がとこ求めて、それでとにかく朝は凌いだ。握飯でもいい、午は米粒にありつきたいのだが、蝦蟇口にはもう二・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・こんな事のあったとは、彼は夢にも知らなかった、相変らず旅廻りをしながら、不図或宿屋へ着くと、婢女が、二枚の座蒲団を出したり、お膳を二人前据えたりなどするので「己一人だよ」と注意をすると、婢女は妙な顔をして、「お連様は」というのであった、彼も・・・ 小山内薫 「因果」
・・・ こうして客引きが出迎えているところを見ると、こんな夜更けに着く客もあるわけかとなにかほっとした。それにしても、この客引きのいる宿屋は随分さびれて、今夜もあぶれていたに違いあるまいと思った。あとでこの温泉には宿屋はたった一軒しかないこと・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫