・・・が、彼は土と血とにまみれて、人気のない川のふちに横わりながら、川楊の葉が撫でている、高い蒼空を見上げた覚えがある。その空は、彼が今まで見たどの空よりも、奥深く蒼く見えた。丁度大きな藍の瓶をさかさまにして、それを下から覗いたような心もちである・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・町はずれを、蒼空へ突出た、青い薬研の底かと見るのに、きらきらと眩い水銀を湛えたのは湖の尖端である。 あのあたり、あの空…… と思うのに――雲はなくて、蓮田、水田、畠を掛けて、むくむくと列を造る、あの雲の峰は、海から湧いて地平線上を押・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・迎うるごとく、送るがごとく、窓に燃るがごとく見え初めた妙義の錦葉と、蒼空の雲のちらちらと白いのも、ために、紅、白粉の粧を助けるがごとくであった。 一つ、次の最初の停車場へ着いた時、――下りるものはなかった――私の居た側の、出入り口の窓へ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・その日は、御前様のお留守、奥様が欄干越に、その景色をお視めなさいまして、――ああ、綺麗な、この白い雲と、蒼空の中に漲った大鳥を御覧――お傍に居りました私にそうおっしゃいまして――この鳥は、頭は私の簪に、尾を私の帯になるために来たんだよ。角の・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ 青梅もまだ苦い頃、やがて、李でも色づかぬ中は、実際苺と聞けば、小蕪のように干乾びた青い葉を束ねて売る、黄色な実だ、と思っている、こうした雪国では、蒼空の下に、白い日で暖く蒸す茱萸の実の、枝も撓々な処など、大人さえ、火の燃ゆるがごとく目・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・濃かりし蒼空も淡くなりぬ。山の端に白き雲起りて、練衣のごとき艶かなる月の影さし初めしが、刷いたるよう広がりて、墨の色せる巓と連りたり。山はいまだ暮ならず。夕日の余波あるあたり、薄紫の雲も見ゆ。そよとばかり風立つままに、むら薄の穂打靡きて、肩・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・青芒の茂った、葉越しの谷底の一方が、水田に開けて、遥々と連る山が、都に遠い雲の形で、蒼空に、離れ島かと流れている。 割合に土が乾いていればこそで――昨日は雨だったし――もし湿地だったら、蝮、やまかがしの警告がないまでも、うっかり一歩も入・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 宗吉は針の筵を飛上るように、そのもう一枚、肘懸窓の障子を開けると、颯と出る灰の吹雪は、すッと蒼空に渡って、遥に品川の海に消えた。が、蔵前の煙突も、十二階も、睫毛に一眸の北の方、目の下、一雪崩に崕になって、崕下の、ごみごみした屋根を隔て・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 時に蒼空に富士を見た。 若き娘に幸あれと、餅屋の前を通過ぎつつ、 ――若い衆、綺麗な娘さんだね、いい婿さんが持たせたいね―― ――ええ、餅屋の婿さんは知りませんが、向う側のあの長い塀、それ、柳のわきの裏門のありますお邸は、・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・朝の天気はまんまるな天際の四方に白雲を静めて、洞のごとき蒼空はあたかも予ら四人を中心としてこの磯辺をおおうている。単純な景色といわば、九十九里の浜くらい単純な景色はなかろう。山も見えず川も見えずもちろん磯には石ころもない。ただただ大地を両断・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
出典:青空文庫