一 季節は冬至に間もなかった。堯の窓からは、地盤の低い家々の庭や門辺に立っている木々の葉が、一日ごと剥がれてゆく様が見えた。 ごんごん胡麻は老婆の蓬髪のようになってしまい、霜に美しく灼けた桜の最後の葉が・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・髪の毛は、いくぶん長く、けれども蓬髪というほどのものではなし、それかと言ってポマアドで手入れしている形跡も見えない。あたりまえの鉄縁の眼鏡を掛けている。甚だ、非印象的である。それ故、訪問客たちは、お互い談論にふけり男爵の存在を忘れていること・・・ 太宰治 「花燭」
・・・海浜の宿の籐椅子に、疲れ果てた細長いからだを埋めて、まつげの長い大きい眼を、まぶしそうに細めて海を見ている。蓬髪は海の風になぶられ、品のよい広い額に乱れかかる。右頬を軽く支えている五本の指は鶺鴒の尾のように細長くて鋭い。そのひとの背後には、・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ 痩躯、一本の孟宗竹、蓬髪、ぼうぼうの鬚、血の気なき、白紙に似たる頬、糸よりも細き十指、さらさら、竹の騒ぐが如き音たてて立ち、あわれや、その声、老鴉の如くに嗄れていた。「紳士、ならびに、淑女諸君。私もまた、幸福クラブの誕生を、最もよ・・・ 太宰治 「喝采」
・・・こよい死ぬる者にとってはふさわしからぬ安堵の溜息がほっと出て、かるく狼狽していたとき、蓬髪花顔のこの家のあるじが写真のままの顔して出て来られて、はじめての挨拶をかわしたのであったが、私には、はじめての人のようにも思われず、おととしの春にふと・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ つまり私たちの一行は、汚いシャツに色のさめた紺の木綿のズボン、それにゲエトルをだらしなく巻きつけ、地下足袋、蓬髪無帽という姿の父親と、それから、髪は乱れて顔のあちこちに煤がついて、粗末極まるモンペをはいて胸をはだけている母親と、それか・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・高等学校のころには、頬に喧嘩の傷跡があり、蓬髪垢面、ぼろぼろの洋服を着て、乱酔放吟して大道を濶歩すれば、その男は英雄であり、the Almighty であり、成功者でさえあった。芸術の世界も、そんなものだと思っていた。お恥かしいことである。・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ 呼びかけた一羽の烏は、無帽蓬髪の、ジャンパー姿で、痩せて背の高い青年である。「そうですが、……」 呼びかけられた烏は中年の、太った紳士である。青年にかわまず、有楽町のほうに向ってどんどん歩きながら、「あなたは?」「僕で・・・ 太宰治 「渡り鳥」
・・・ そんなことを考えながら、T君の山男のような蓬髪としわくちゃによごれやつれた開襟シャツの勇ましいいで立ちを、スマートな近代的ハイカーの颯爽たる風姿と思い比べているうちに、いつか快い眠りに落ちて行ったことであった。・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・言葉どおりにぼろぼろの着物をきて、頬かぶりをした手ぬぐいの穴から一束の蓬髪が飛び出していたように思う。 しらみを取っているのだということはもちろんはじめは知らなかった。だれかから教わって始めて覚えたことである。きたない着物を引っぱっては・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
出典:青空文庫