・・・雲が湧き立っては消えてゆく空のなかにあったものは、見えない山のようなものでもなく、不思議な岬のようなものでもなく、なんという虚無! 白日の闇が満ち充ちているのだということを。私の眼は一時に視力を弱めたかのように、私は大きな不幸を感じた。濃い・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・この不快感は日光浴の済んだあとなんとも言えない虚無的な疲れで病人を打ち敗かしてしまう。おそらくそれへの嫌悪から私のそうした憎悪も胚胎したのかもしれないのである。 しかし私の憎悪はそればかりではなく、太陽が風景へ与える効果――眼からの効果・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ ロシアの作者、ツルゲネフやトルストイにあらわれた虚無思想をもって最もよく人生観上の自然主義に当たるものと見る人もある。虚無思想の中心は、ツルゲネフの作が定義するところによれば、あらゆるものを信ぜず、あらゆる権威に抗争する点に存する。し・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・散髪を怠らず、学問ありげな、れいの虚無的なるぶらりぶらりの歩き方をも体得して居た筈でありますし、それに何よりも泥酔する程に酒を飲まぬのが、決定的にこの男を上品な紳士の部類に編入させているのであります。けれども、悲しいかな、この男もまた著述を・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ろくな仕事もしていない癖に、その生活に於いて孤高を装い、卑屈に拗ねて安易に絶望と虚無を口にして、ひたすら魅力ある風格を衒い、ひとを笑わせ自分もでれでれ甘えて恐悦がっているような詩人を、自分は、底知れぬほど軽蔑しています。卑怯であると思う。横・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・僕は、まさか、ファウスト博士みたいに、まさか、万巻の書を読んだわけでは無いんですが、でも、あれに似た虚無を、ふっと感じることがあるんですね。」ひどくしどろもどろになって来た。「そんなことじゃ、仕様が無いじゃないですか。あなたは、失礼です・・・ 太宰治 「鴎」
・・・たとえばある一人の虚無的な思想をもった大学生に高利貸しの老婆を殺させる。そうして、これにかれんな町の女や、探偵やいろいろの選まれた因子を作用させる。そうして主人公の大学生が、これに対していかに反応するかを観察する。これは一つの実験である。た・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・ 老子は虚無を説くから危険思想だとこわがる人があるそうである。しかし自分が電車で巡り合った老子の虚無は円満具足を意味する虚無であって、空っぽの虚無とは全く別物であった。老子の無為は自覚的には無為であるが実は無意識の大なる有為であった。危・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・この寂滅あるいは虚無的な色彩が中古のあらゆる文化に滲透しているのは人の知るところである。 しかし本来の風雅の道は決して人を退嬰的にするためのものではなかったと思う。上は摂政関白武将より下は士農工商あらゆる階級の間に行なわれ、これらの人々・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・頭を蔽う天もなく、足を乗する地もなく冷瓏虚無の真中に一人立つ。「君は今いずくに居わすぞ」と遙かに問うはかの女の声である。「無の中か、有の中か、玻璃瓶の中か」とウィリアムが蘇がえれる人の様に答える。彼の眼はまだ盾を離れぬ。 女は歌・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫