・・・大抵は市街地に出て一杯飲んでいたのらしく、行違いにしたたか酒の香を送ってよこすものもあった。彼れは酒の香をかぐと急にえぐられるような渇きと食欲とを覚えて、すれ違った男を見送ったりしたが、いまいましさに吐き捨てようとする唾はもう出て来なかった・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・飾の鳥には、雉子、山鶏、秋草、もみじを切出したのを、三重、七重に――たなびかせた、その真中に、丸太薪を堆く烈々と燻べ、大釜に湯を沸かせ、湯玉の霰にたばしる中を、前後に行違い、右左に飛廻って、松明の火に、鬼も、人も、神巫も、禰宜も、美女も、裸・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織袴の扮装の人物、その他、貴婦人令嬢等いずれもただならず気高きが、あなたに行き違い、こなたに落ち合い、あるいは歩し・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ いずれも、花骨牌で徹夜の今、明神坂の常盤湯へ行ったのである。 行違いに、ぼんやりと、宗吉が妾宅へ入ると、食う物どころか、いきなり跡始末の掃除をさせられた。「済まないことね、学生さんに働かしちゃあ。」 とお千さんは、伊達巻一・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・今しも届きたる二三の新聞を読み終りて、辰弥は浴室にと宿の浴衣に着更え、広き母屋の廊下に立ち出でたる向うより、湯気の渦巻く濡手拭に、玉を延べたる首筋を拭いながら、階段のもとへと行違いに帰る人あり。乙女なり。かの人ぞと辰弥は早くも目をつけぬ。思・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・き不幸もあらんには、其時に至り亡人の存命中、戸外に何事を経営して何人に如何なる関係あるや、金銭上の貸借は如何、その約束は如何など、詳細の事実を知らずして、仮令い帳簿を見ても分明ならず、之が為めに様々の行違いを生じて、甚しきは訴訟の沙汰に及ぶ・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・ かような、重大な、而して余りに人間的な行違いは何によって起り得るかといえば、自分は、一言「未全なる愛」といわずにはいられません。 愛の力は強いのです。愛し、拡大し、創造しようとする意欲は愛すべきものです。 けれども、憐れな、力・・・ 宮本百合子 「偶感一語」
・・・そういう感情の状態だから夏ぶどんの行違いには閉口してしまいました。マア、でもいいわ。それに、今年の冬こそあんな足の先の出るようなのではない夜具をさしあげます。あなたの体に、あの変に小さいおしるしのような被物がのっかっていたのかと考えると滑稽・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・手に入らないばかりでなく、質的にもうない本ばかりですから。行き違いにお手紙が来るのでしょうね。誰も行く人がなくてごめんなさい。気にしています。 十一月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より〕 今、手紙の封をしたところへ六・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・女房丁度雨がふり出したので傘をもって迎いに来る。行き違いになったのだろうと云ってかえる。その間に女は、線路のどこかで、人足に――土方に会い、お嫁に来ないか、女房にならないかと云われ、そのまま一緒に夕暮二三時間すごす。すぐどうかなったのなり。・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
出典:青空文庫