・・・ 賢造は妙に洋一と、視線の合う事を避けたいらしかった。「しかしあしたは谷村博士に来て貰うように頼んで置いた。戸沢さんもそう云うから、――じゃ慎太郎の所を頼んだよ。宿所はお前が知っているね。」「ええ、知っています。――お父さんはど・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・においの高い巻煙草を啣えながら、じろじろ私たちの方を窺っていたのと、ぴったり視線が出会いました。私はその浅黒い顔に何か不快な特色を見てとったので、咄嗟に眼を反らせながらまた眼鏡をとり上げて、見るともなく向うの桟敷を見ますと、三浦の細君のいる・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・彼女はフォルテブラッチョ家の座席からオッタヴィアナが送る視線をすぐに左の頬に感じたけれども、もうそんな事に頓着はしていなかった。彼女は座席につくと面を伏せて眼を閉じた。ややともすると所も弁えずに熱い涙が眼がしらににじもうとした。それは悲しさ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 一同の視線がこの一人の上に集まった。 もしそこへ出たのが、当り前の人間でなくて、昔話にあるような、異形の怪物であっても、この刹那にはそれを怪み訝るものはなかったであろう。まだ若い男である。背はずっと高い。外のものが皆黒い上衣を着て・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 思わず視線の向うのと、肩を合せて、その時、腰掛を立上った、もう一人の女がある。ちょうど緋縮緬のと並んでいた、そのつれかとも思われる、大島の羽織を着た、丸髷の、脊の高い、面長な、目鼻立のきっぱりした顔を見ると、宗吉は、あっと思った。・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 憤慨と、軽侮と、怨恨とを満たしたる、視線の赴くところ、麹町一番町英国公使館の土塀のあたりを、柳の木立ちに隠見して、角燈あり、南をさして行く。その光は暗夜に怪獣の眼のごとし。 二 公使館のあたりを行くその怪獣・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ 省作はここにまごまごしていると、すぐ呼びたてられるから、今しばらく家のものの視線を避けようとしていると、おはまが水くみにきた。「省さん、今日はきっと負かしてやります」「ばかいえ、手前なんかに片手だって負けっこなしだ」「そっ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・例の通りに白壁のように塗り立てた夫人とクッつき合って、傍若無人に大きな口を開いてノベツに笑っていたが、その間夫人は沼南の肩を叩いたり膝を揺ったりして不行儀を極めているので、衆人の視線は自然と沼南夫妻に集中して高座よりは沼南夫妻のイチャツキの・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・みんなの視線は、たちまち、小田の顔の上に集まったのはいうまでもありません。 彼は、立ち上がると、「私のお母さんは、お金のないときは、自分のだいじなものも売って、僕のためにいろいろなものを買ってくださいます。そんなとき、私はじつにすま・・・ 小川未明 「笑わなかった少年」
・・・ 女は暫らく私を見凝めるともなく、想いにふけるともなく捕えがたい視線をじっと釘づけにしていたが、やがていきなり歪んだ唇を痙攣させたかと思うと、「私の従兄弟が丁度お宅みたいなからだ恰好でしたけど、やっぱり肺でしたの」 膝を撫でなが・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫