・・・其の瞬間に経験した奇異なる心況は殆名状することの出来ないほど複雑なものであった。観客の言語服装と舞台の世界とは全然別種のもので、其間に何等の融和すべきものがない。これに加るに残暑の殊に烈しかった其年の気候はわたくしをして更に奇異なる感を増さ・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・また有楽座に開演せられる翻訳劇の観客に対しては特に精細なる注意をなした。わたしは漸くにして現代の婦人の操履についてやや知る事を得たような心持になった。それと共にわたしはいよいよわが制作の困難なることを知ったのである。およそ芸術の制作には観察・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・だから、いきなり新宿のカフェーであばずれかかった女給としておふみが現れたとき、観客は少し唐突に感じるし、どこかそのような呈出に平俗さを感じる。このことは、例えば、待合で食い逃げをした客にのこされたとき、おふみが「よかったねえ!」と艶歌師の芳・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・のイレーネは長い冬から突然芽立って来たばかりの蕾のような感情の猛烈さ、程よいという表現を知らない荒っぽさで、父への愛、母への愛の自分で知らない嫉妬にめくらになるのだが、私は一人の観客としてこの映画に堪能しないものをのこされた。芸術的な感銘で・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・ 観客に対する関係からでも映画製作者は恋愛のさまざまに変化ある捕え方に苦心しているのであろうが、せんだってのディートリッヒとヴォアイエの「砂漠の花園」などは中途はんぱで工夫倒れの感があった。それよりは「あまかける恋」におけるゲーブルとク・・・ 宮本百合子 「映画の恋愛」
・・・彼の時代の観客は、その騒々しい粗野な平土間席で、昨日帝劇の見物がそれを見て大いに笑ったその笑いの内容で、笑って見物したであろうか。この世にありえないことがわかりきった安らかさで笑っていた、その笑いを笑ったであろうか。ルネッサンスは、近代科学・・・ 宮本百合子 「現代の主題」
・・・それだのに、どうして、芸術座はアンナ・カレーニナを上演し、名優タラーソヴァの演技は、世界の観客をうつのだろう。タラーソヴァと芸術座の演出者は、こんにち地球にのこっている資本主義の社会の上流で、アンナ・カレーニナの悲劇が生きられていることを歴・・・ 宮本百合子 「心に疼く欲求がある」
・・・ ――ヒヤーッ! 助けてくれ インドの子供が悲鳴をあげたのは当り前だ。骸骨だ、そこへ現れたのは。 観客席はざわめく。 ――ラグナート! ラグナート! 泣かんばかりに腰をぬかしたウペシュを照してパッと電燈がついた。骸骨も消・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・トラムのそこが値打だ。観客はそのオペレットの時なんかは実に大喜びで、幕合には革命劇場中賑かな歌の声で響き渡った。オペレットの音楽が極く大衆的な、単純で可愛いい要素で作曲されているので、若い連中は見ている間に歌を覚え、早速その合唱という訳だ。・・・ 宮本百合子 「ソヴェト「劇場労働青年」」
・・・やがて時が迫って来て彼女の特有な心持ちにはいると、突如全身の情熱を一瞬に集めて恐ろしい破裂となり、熱し輝き煙りつつあるラヴァのごとくに観客の官能を焼きつくす。その感動の烈しさは劇場あって以来かつてない事である。この瞬間には彼女は自己というも・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫