・・・同時にまた目の前へ浮かび上った金色の誘惑を感じはじめる。もう五分、――いや、もう一分たちさえすれば、妙子は達雄の腕の中へ体を投げていたかも知れません。そこへ――ちょうどその曲の終りかかったところへ幸い主人が帰って来るのです。 主筆 それ・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・その誘惑を意識しつつ、しかもその誘惑に抵抗しない、たとえば中途まで送って来た妓と、「何事かひそひそ囁き交したる後」莫迦莫迦しさをも承知した上、「わざと取ってつけたように高く左様なら」と云い合いて、別れ別れに一方は大路へ、一方は小路へ、姿を下・・・ 芥川竜之介 「久米正雄」
・・・ 僕はちょっとそのビスケットのだけ嗅いで見たい誘惑を感じた。「おい、僕にもそれを見せてくれ。」「うん、こっちにまだ半分ある。」 譚は殆ど左利きのように残りの一片を投げてよこした。僕は小皿や箸の間からその一片を拾い上げた。けれ・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・若い者は一寸誘惑を感じたが気を取直して、「困るでねえか、そうした事店頭でおっ広げて」というと、「困ったら積荷こと探して来う」と仁右衛門は取り合わなかった。 昼になっても荷の回送はなかった。仁右衛門は自分からいい出しながら・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・肉は霊への誘惑なるを知らざるや。心の眼鈍きものはまず肉によりて愛に目ざむるなり。愛に目ざめてそを哺むものは霊に至らざればやまざるを知らざるや。されど心の眼さときものは肉に倚らずして直に愛の隠るる所を知るなり。聖処女の肉によらずして救主を孕み・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・もっとも、すぺりと円い禿頭の、護謨、護謨としたのには、少なからず誘惑を感じたものだという。げええ。大なおくび、――これに弱った――可厭だなあ、臭い、お爺さん、得ならぬにおい、というのは手製りの塩辛で、この爺さん、彦兵衛さん、むかし料理番の入・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・アレは誘惑されたんだ、オモチャにされたんだ。」と、U氏はYの悔悛に多少の同情を寄せていたが、それには違いなくても主人なり恩師なりの眼を掠めてその最愛の夫人の道ならぬ遊戯のオモチャになったYの破廉恥を私は憤らずにはいられなかった。Yは私の・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 青い星を見た刹那から、彼女を北へ北へとしきりに誘惑する目に見えない不思議な力がありました。 とうとう、二、三日の後でした。年子は、北へゆく汽車の中に、ただひとり窓に凭って移り変わってゆく、冬枯れのさびしい景色に見とれている、自分を・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・私を誘惑する大阪の灯ももうすっかり消えてしまい、かえって気持が落ちついている。外交をして廻っていると、儲ける機会もないではなく、そしてまた何年かのちに、また新聞に二度目の秋山さんとの会合を書かれることを思えば、少しは……と思わぬこともなかっ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・に好かれて、彼のために身を亡した妓も少くはなかった。豹一は妓の白い胸にあるホクロ一つにも愛惜を感じる想いで、はじめて嫉妬を覚えた。博奕打ちに負けたと思うと、血が狂暴に燃えた。妓が「疳つりの半」に誘惑された気持に突き当ると、表情が蒼凄んだ。不・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫