・・・勿論この島の事ですから、酢や醤油は都ほど、味が好いとは思われません。が、その御馳走の珍しい事は、汁、鱠、煮つけ、果物、――名さえ確かに知っているのは、ほとんど一つもなかったくらいです。御主人はわたしが呆れたように、箸もつけないのを御覧になる・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・象牙の箸をとり上げたと思うと、わざと彼の鼻の上へ醤油の匂のする刺身を出した。彼は勿論一口に食った。それから感謝の意を表するため、こう父へ話しかけた。「さっきはよそのお師匠さん、今度は僕がお目出度なった!」 父は勿論、母や伯母も一時に・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・その代り間代、米代、電燈代、炭代、肴代、醤油代、新聞代、化粧代、電車賃――そのほかありとあらゆる生活費が、過去の苦しい経験と一しょに、恰も火取虫の火に集るごとく、お君さんの小さな胸の中に、四方八方から群って来る。お君さんは思わずその八百屋の・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・けれども、煮ようたって醤油なんか思いもよらない。焼くのに、炭の粉もないんです。政治狂が便所わきの雨樋の朽ちた奴を……一雨ぐらいじゃ直ぐ乾く……握り壊して来る間に、お雪さんは、茸に敷いた山草を、あの小石の前へ挿しましたっけ。古新聞で火をつけて・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ この使のついでに、明神の石坂、開化楼裏の、あの切立の段を下りた宮本町の横小路に、相馬煎餅――塩煎餅の、焼方の、醤油の斑に、何となく轡の形の浮出して見える名物がある。――茶受にしよう、是非お千さんにも食べさしたいと、甘谷の発議。で、宗吉・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・目笊に一杯、葱のざくざくを添えて、醤油も砂糖も、むきだしに担ぎあげた。お米が烈々と炭を継ぐ。 越の方だが、境の故郷いまわりでは、季節になると、この鶫を珍重すること一通りでない。料理屋が鶫御料理、じぶ、おこのみなどという立看板を軒に掲げる・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・床の上に昇って水は乳まであった。醤油樽、炭俵、下駄箱、上げ板、薪、雑多な木屑等有ると有るものが浮いている。どろりとした汚い悪水が、身動きもせず、ひしひしと家一ぱいに這入っている。自分はなお一渡り奥の方まで一見しようと、ランプに手を掛けたら、・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・りは駄目なもんさ、白粉は三升許りも挽けた、利助もいつの間にか帰ってる、お町は白粉を利助に渡して自分は手軽に酒の用意をした、見ると大きな巾着茄子を二つ三つ丸ごと焼いて、うまく皮を剥いたのへ、花鰹を振って醤油をかけたのさ、それが又なかなかうまい・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
年中借金取が出はいりした。節季はむろんまるで毎日のことで、醤油屋、油屋、八百屋、鰯屋、乾物屋、炭屋、米屋、家主その他、いずれも厳しい催促だった。路地の入り口で牛蒡、蓮根、芋、三ツ葉、蒟蒻、紅生姜、鯣、鰯など一銭天婦羅を揚げ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
この月の二十日前後と産婆に言われている大きな腹して、背丈がずんぐりなので醤油樽か何かでも詰めこんでいるかのような恰好して、おせいは、下宿の子持の女中につれられて、三丁目附近へ産衣の小ぎれを買いに出て行った。――もう三月一日だった。二三・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
出典:青空文庫