・・・器量はよかったが、衣裳がないので、そんな所で働いているのだった。銭湯代がないから、五十銭貸してくれと、私に無心したことがある。貸してやると、その金で仁丹の五十銭袋を買うたらしい。一日二円たらずの収入で、毎日三円の仁丹では、暮らして行けぬのか・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・…… 路に沿うた竹藪の前の小溝へは銭湯で落す湯が流れて来ている。湯気が屏風のように立騰っていて匂いが鼻を撲った――自分はしみじみした自分に帰っていた。風呂屋の隣りの天ぷら屋はまだ起きていた。自分は自分の下宿の方へ暗い路を入って行った・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・私は久し振りに手拭をさげて銭湯へ行きました。やはり雨後でした。垣根のきこくがぷんぷん快い匂いを放っていました。 銭湯のなかで私は時たま一緒になる老人とその孫らしい女の児とを見かけました。花月園へ連れて行ってやりたいような可愛い児です。そ・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ 私たち親子はその晩久しぶりで――一年振りかも知れません――そろって銭湯に出かけて行きました。「お母さんの背中を流してあげるわ。」この娘がいつになくそんなことをいゝます。私は今までの苦労を忘れて、そんな言葉にうれしくなりました。 と・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・それから、気軽に立って、おい佐吉さん、銭湯へ行こうよと言い出すのだから、相当だろう。風呂へ入って、悠々と日本剃刀で髯を剃るんだ。傷一つつけたことが無い。俺の髯まで、時々剃られるんだ。それで帰って来たら、又一仕事だ。落ちついたもんだよ。」・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・は夫の酒毒のせいか、病毒のせいか、よその二つの子供よりも小さいくらいで、歩く足許さえおぼつかなく、言葉もウマウマとか、イヤイヤとかを言えるくらいが関の山で、脳が悪いのではないかとも思われ、私はこの子を銭湯に連れて行きはだかにして抱き上げて、・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ 私たちはやがて、そろって銭湯に出かけた。よいお天気だった。大隅君は青空を見上げて、「しかし、東京は、のんきだな。」「そうかね。」「のんきだ。北京は、こんなもんじゃないぜ。」私は東京の人全部を代表して叱られている形だった。け・・・ 太宰治 「佳日」
・・・思えばエジプトにいた頃はよかったね、奴隷だって何だって、かまわないじゃないか、パンもたらふく食べられたし、肉鍋には鴨と葱がぐつぐつ煮えているんだ、こたえられねえや、それにお酒は昼から飲み放題と来らあ、銭湯は朝からあったし、ふんどしだって純綿・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・あの細長い煙突は、桃の湯という銭湯屋のものであるが、青い煙を風のながれるままにおとなしく北方へなびかせている。あの煙突の真下の赤い西洋甍は、なんとかいう有名な将軍のものであって、あのへんから毎夜、謡曲のしらべが聞えるのだ。赤い甍から椎の並木・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・若き兵士たり、それから数行の文章の奥底に潜んで在る不安、乃至は、極度なる羞恥感、自意識の過重、或る一階級への義心の片鱗、これらは、すべて、銭湯のペンキ絵くらいに、徹頭徹尾、月並のものである。私は、これより数段、巧みに言い表わされたる、これら・・・ 太宰治 「狂言の神」
出典:青空文庫