・・・部屋の長押に、四十歳くらいの背広を着た紳士の写真がかけられていたのである。「どなたです。」まずい質問だったかな? と内心ひやひやしていた。「あら、」上の姉さんは、顔をあからめた。「きょうは、はずして置けばよかったのに。こんなおめでたい席・・・ 太宰治 「佳日」
・・・むかし、尾崎紅葉もここへ泊ったそうで、彼の金色夜叉の原稿が、立派な額縁のなかにいれられて、帳場の長押のうえにかかっていた。 私の案内された部屋は、旅館のうちでも、いい方の部屋らしく、床には、大観の雀の軸がかけられていた。私の服装がものを・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・しかし画架からはずして長押の上に立てかけて下から見上げるとまるで見違えるような変な顔になっているのでびっくりする。どうかすると片方の小鼻が途方もなくたれ下がっているのを手近で見る時には少しも気づかなかったりする。 不思議な事にはこのよう・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・念のために長押の裏を蝋燭で照らして火箸で突っついて歩いたがやはりそこにもいなかった。ただ一か所壁のこぼれたすみのほうに穴らしいものが見えたが光がよく届かないのではっきりしなかった。それが穴だとしてもそれを抜けてどこへ出られるかという事が明瞭・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・座敷の縁側の軒下に投網がつり下げてあって、長押のようなものに釣竿がたくさん掛けてある。何時間で乙の旅人が甲の旅人に追い着くかという事がどうしてもわからぬ、考えていると頭が熱くなる、汗がすわっている足ににじみ出て、着物のひっつくのが心・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・またある時はのらねこを退治するのだと言って、槍かあるいは槍といっしょに長押にかかっていた袖がらみのようなものかを持ち出して意気込んでいたが、ねこの鳴き声を聞くと同時にそれを投げ出して座敷にかけ上がったというような逸話もあった。 三人の兄・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・室内の高い長押にちらちらする日影。時計の眩ゆい振子の金色。縁側に背を向け、小さな御飯台に片肱をかけ、頭をまげ、私は一心に墨を磨った。 時計のカチ、カチ、カチカチいう音、涼しいような黒い墨の香い。日はまあ何と暖かなのだろう。「ああちゃ・・・ 宮本百合子 「雲母片」
・・・真白な天井や壁ばかり見ていたので、障子のこまかい棧、長押、襖の枠、茶だんす、新しい畳のへりなど、茶色や黒い線が、かすかに西日を受ける部屋の中で物珍しく輻輳した感じでいちどきに目に映った。火鉢のわきにいつもの場処にさて、と坐る。どうもいろいろ・・・ 宮本百合子 「寒の梅」
○床の間の上の長押に功七級金鵄勲章の金額のところはかくれるような工合に折った書類が 茶色の小さい木の椽に入ってかかっている、針金で。○大きい木の椽に、勲八等の青色桐葉章を与う証が入っている。「三万五千五百八十四号ヲ以・・・ 宮本百合子 「Sketches for details Shima」
・・・柱にかけた鏡の上に飾ってあるバラの造花、ビール箱を四つ並べた寝台の頭上の長押に、遠慮深くのせられてある三寸ばかりのキリストの肖像。――それ等は、悠くり、隅から隅へ歩いているダーリヤのやや田舎風な、にくげない全体とよく調和していた。レオニード・・・ 宮本百合子 「街」
出典:青空文庫