・・・カンテラが、無愛想に渋り切った井村の顔に暗い陰影を投げた。彼女は、ギクッとした。しかしかまわずに、「たいへんなやつがあると自分で睨んだから、掘って来たんだって、どうして云ってやらなかったの。」 なじるような声だった。「やかましい・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・降り竜といえるは竜の首めきたる岩の、上より斜に張り出でたるなるが、燭を執りたる婦に従いて寒月子があたかもその岩の下を行くを後より見れば、さなきだに燭の光りのそこここに陰影をつくれるが怪しく物怖ろしげに見ゆる中に、今や落ちかからんずる勢して、・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・遠い山々にはまだ白雪の残ったところも有ったが、浅間あたりは最早すっかり溶けて、牙歯のような山続きから、陰影の多い谷々、高い崩壊の跡などまで顕われていた。朝の光を帯びた、淡い煙のような雲も山巓のところに浮んでいた。都会から疲れて来た高瀬には、・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・頭は丸刈りにして、鬚も無いが、でも狭い額には深い皺が三本も、くっきり刻まれて在り、鼻翼の両側にも、皺が重くたるんで、黒い陰影を作っている。どうかすると、猿のように見える。もう少年でないのかも知れない。私の足もとに、どっかり腰をおろして、私の・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・恋に窶れて、少し荒んだ陰影を、おのが姿に与えたかった。 Aという、その海のある小都会に到着したのは、ひるすこしまえで、私はそのまま行き当りばったり、駅の近くの大きい割烹店へ、どんどんはいってしまった。私にも、その頃はまだ、自意識だのなん・・・ 太宰治 「デカダン抗議」
・・・痩せて小柄な男であったが、鉄縁の眼鏡の底の大きい眼や、高い鼻は、典雅な陰影を顔に与えて、教養人らしい気品は、在った。「あなた、お金ある?」押入れのまえに、ぼんやり立ったままで、さちよは、そんなことを呟いた。「あたし、もう、いやになっ・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・黒子を着た助手などはほとんどただぼやけた陰影ぐらいにしか見えないのである。 酒屋の段は、こんな事を感心しているうちにすんでしまった。次には松王丸の首実検である。最初に登場する寺子屋の寺子らははなはだ無邪気でグロテスクなお化けたちであるが・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・のみならずいろいろな雑音はその音源の印象が不判明であるがために、その喚起する連想の周囲には簡単に名状し記載することのできない潜在意識的な情緒の陰影あるいは笹縁がついている。音の具象性が希薄であればあるほど、この陰影は濃厚になる。それだから、・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・しかしあのろうそくの炎の不定なゆらぎはあらゆるものの陰影に生きた脈動を与えるので、このグロテスクな影人形の舞踊にはいっそう幻想的な雰囲気が付きまとっていて、幼いわれわれのファンタジーを一種不思議な世界へ誘うのであった。 ジャヴァの影人形・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・それなのに、活字の大小の使い分けや、文章の巧妙なる陰影の魔力によって読者読後の感じは、どうにも、書いてある事実とはちがったものになるのである。実に驚くべき芸術である。こういうのがいわゆるジャーナリズムの真髄とでもいうのであろう。 ついこ・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
出典:青空文庫