・・・母の袖の下へ隠れるようにしてお松の顔を見た。お松は襷をはずして母に改った挨拶をしてから、なつかしい目でにっこり笑いながら「坊さんきまりがわるいの」と云って自分を抱いてくれた。自分はお松はなつかしいけれど、まだ知らなかったお松の母が居るから直・・・ 伊藤左千夫 「守の家」
・・・それに照らされては、隠れる陰がない。おまけに、そこから敵の砲塁までは小川もなく、樹木もなく、あった畑の黍は、敵が旅順要塞に退却の際、みな刈り取ってしもたんや。一歩踏み出せば、もう、直ぐ敵弾の餌食は覚悟せにゃならん。聨隊長はこの進軍に反対であ・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・そんなことを予覚しているような木の芽は、小鳥に自分の姿を見いだされないように、なるたけ石の蔭や、草の蔭に隠れるようにしていました。 口やかましい、そして、そそっかしい風が、つぎに木の芽を見つけました。「おお、ほんとうにいい木の芽だ。・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・現実の戦争を廻避して、空名の愛とか人道とかに隠れるというのは、何という卑怯さであるか。本当の愛であったならば、死を以って争うのが当然である。キリストの無抵抗主義若しくは犠牲というものは、そういうような逃避的な卑屈のものではなかった。・・・ 小川未明 「反キリスト教運動」
・・・そして電灯を消した暗い室に立った大勢の人たちの後ろに、隠れるように立った。マグネシュウムがまた二三度燃やされた。それから電灯がついて三十人に近い会衆は白布のテーブルを間にして、両側の椅子に席を取った。 主催笹川の左側には、出版屋から、特・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・高い椎の樹へ隠れるのである。直射光線が気疎い回折光線にうつろいはじめる。彼らの影も私の脛の影も不思議な鮮やかさを帯びて来る。そして私は褞袍をまとって硝子窓を閉しかかるのであった。 午後になると私は読書をすることにしていた。彼らはまたそこ・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・それが鎌倉時代の道も開けぬ時代に、鎌倉から身延を志して隠れるということがすでに尋常一様な人には出来るものでないことは一度身延詣でしてみれば直ちに解るのである。 ことには冬季の寒冷は恐るべきものがあったに相違ない。 雪が一丈も、二丈も・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・長い寒い夜なぞは凍み裂ける部屋の柱の音を聞きながら、唯もう穴に隠れる虫のようにちいさくなって居た。 この「冬」が私には先入主になってしまった。私はあの山の上で七度も「冬」を迎えた。私の眼に映る「冬」は唯灰色のものだった。巴里の方で逢った・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・ほら、踵がすっかり隠れる」と言うと、「母さんのだもの」と炬燵から章坊が言う。「小母さんはこんなに背が高いのかなあ」「なんの、あなたが少し低うなりなんしたのいの。病気をしなんすもんじゃけに」と初やが冗談をいう。「女は腰のところ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・もし万一、自分に乱暴を働くようだったら、……その時こそ、永井キヌ子の怪力のかげに隠れるといい。 まさに百パーセントの利用、活用である。「いいかい? たぶん大丈夫だと思うけどね、そこに乱暴な男がひとりいてね、もしそいつが腕を振り上げた・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
出典:青空文庫