一 雨降りの午後、今年中学を卒業した洋一は、二階の机に背を円くしながら、北原白秋風の歌を作っていた。すると「おい」と云う父の声が、突然彼の耳を驚かした。彼は倉皇と振り返る暇にも、ちょうどそこにあった辞・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ ある静かな雨降りの夜、お蓮は牧野の酌をしながら、彼の右の頬へ眼をやった。そこには青い剃痕の中に、大きな蚯蚓脹が出来ていた。「これか? これは嚊に引っ掻かれたのさ。」 牧野は冗談かと思うほど、顔色も声もけろりとしていた。「ま・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 雨降りや雨上りの時は、蹄がすべる。いきなり、四つ肢をばたばたさせる。おむつをきらう赤ん坊のようだ。仲仕が鞭でしばく。起きあがろうとする馬のもがきはいたましい。毛並に疲労の色が濃い。そんな光景を立ち去らずにあくまで見て胸を痛めているのは・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・ある夕、雨降り風起ちて磯打つ波音もやや荒きに、独りを好みて言葉すくなき教師もさすがにもの淋しく、二階なる一室を下りて主人夫婦が足投げだして涼みいし縁先に来たりぬ。夫婦は燈つけんともせず薄暗き中に団扇もて蚊やりつつ語れり、教師を見て、珍らしや・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 五月十一日 今日は朝から雨降り風起りて、湖水のような海もさすがに波音が高い。山は鳴っている。 今夜はお露も来ない。先刻まで自分と飲んでいた若者も帰ってしまった。自分は可い心持に酔うている。酔うてはいるもののどうも孤独の感に堪え・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・多し、されどこはいと小さき者の一つなり、水車場を離れて孫屋立ち、一抱えばかりの樫七株八株一列に並びて冬は北の風を防ぎ夏は涼しき陰もてこの屋をおおい、水車場とこの屋との間を家鶏の一群れゆききし、もし五月雨降りつづくころなど、荷物曳ける駄馬、水・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・氷の雨塚とは太古のいまだ開けざる頃の人の住家もしくは墓穴のたぐいを、むかし氷の雨降りたる時人々の隠れたりしところならんと後のものの思いしより呼びならわせし名にやあるべき、詳くは考うべき由なし。大淵、小柱、金崎、皆野、久那、寺尾等秩父郡の村々・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・小石原にていよいよ堪え難きに、雨降り来り日暮るるになんなんたり。やむをえず負える靴をとりおろして穿ち歩むに、一ツ家のわらじさげたるを見当り、うれしやと立寄り一ツ求めて十銭札を与うるに取らず、通用は近日に廃せらるる者ゆえ厭い嫌いて、この村にて・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ その日は雨降りだから、すいているだろうと思って昼間の武蔵野館へ行ってみたのであったが、一杯のいりであった。たくさんの女のひとが熱心にみている。ぴったりと吸いよせられて、その肩のあたりや横顔をぼんやり浮上らせている列にそって顔から顔へ視・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・ それにしても雨降りよりは増しだ。 雨だと一太は納豆売りに出なかった。学校へ行かない一太は一日家に凝っとしていなければならないが、毎日野天にいることが多い一太にとってそれは実に退屈だった。一太の家は、千住から小菅の方へ行く街道沿いで・・・ 宮本百合子 「一太と母」
出典:青空文庫