・・・また梅が散る春寒の昼過ぎ、摺硝子の障子を閉めきった座敷の中は黄昏のように薄暗く、老妓ばかりが寄集った一中節のさらいの会に、自分は光沢のない古びた音調に、ともすれば疲れがちなる哀傷を味った事もあった。 しかしまた自分の不幸なるコスモポリチ・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・生活の音調が変化したのである。わたくしは三十年前の東京には江戸時代の生活の音調と同じきものが残っていた。そして、その最後の余韻が吉原の遊里において殊に著しく聴取せられた事をここに語ればよいのである。 遊里の存亡と公娼の興廃の如きはこれを・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・しかしその上にも余を驚かしたのは君の音調である。白状すれば、もう少しは浮いてるだろうと思った。ところが非常な呂音で大変落ちついて、ゆったりした、少しも逼るところのない話し方をする。しかも余に紹介された時、君はただ一二語しか云わなかった。その・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・ 一体、欧文は唯だ読むと何でもないが、よく味うて見ると、自ら一種の音調があって、声を出して読むとよく抑揚が整うている。即ち音楽的である。だから、人が読むのを聞いていても中々に面白い。実際文章の意味は、黙読した方がよく分るけれど、自分の覚・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・されど蕪村の句その影響を受けしとも見えざるは、音調に泥みて清新なる趣味を欠ける和歌の到底俳句を利するに足らざりしや必せり。 当時の和文なるものは多く擬古文の類にして見るべきなかりしも、擬古ということはあるいは蕪村をして古語を用い古代の有・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ かの子さんの小説は、かの子さんの曲線、色、厚み、音調、眼の動かしかた、身ごなしすべてをもっているのであるけれども、そこにかの子さんという人が出て来ると、一目でわかったものの代りに、何だか分るのだけれど分らない気がする。あすこだな、と内・・・ 宮本百合子 「作品の血脈」
・・・ 従って彼女等は、濃い色と、強い音調と香気と、強い興奮で、轟々と鳴りとどろく、大都会の騒音に辛くも反抗するのでございます。 其故同じアメリカでも、場所によっては、決して騒がしい女性許りではございません。 しっとりと、草の葉のさざ・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・リアリズムの彷徨の一歩と現代文学に於ける自我の喪失とは、胡弓とその弓とのような関係で極めて時代的な音調を立て始めたのである。 さて、文芸復興の声は盛んであるが、果して文芸は当時復興したであろうか。声が響いているばかりで、現実には新たな文・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・ 自分が寝せつけられて居る様な音調で彼女は子守唄を唄いました。お家の可愛いお宝ちゃんお寝み遊ばせお静かに……! 彼女がその時々勝手な言葉をつけて細い声で唄う歌は暫くの間子供を静かにさせましたけれ共、その次ほんとうに火・・・ 宮本百合子 「二月七日」
・・・のんびりした音律のフレンチのしなやかな音調のうたは感じやすい女の心から涙をにじませるには十分すぎて居た。男の肩に頭をおっつけて目をつぶって女は夢を見かけて居た。「私達は人並じゃなくしましょうよ」 女はフイとこんな事を云い出した。・・・ 宮本百合子 「芽生」
出典:青空文庫