・・・の僧院の鐘の音と、鵠の声とに暮れて行くイタリアの水の都――バルコンにさく薔薇も百合も、水底に沈んだような月の光に青ざめて、黒い柩に似たゴンドラが、その中を橋から橋へ、夢のように漕いでゆく、ヴェネチアの風物に、あふるるばかりの熱情を注いだダン・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・その上荒れはてた周囲の風物が、四方からこの墓の威厳を害している。一山の蝉の声の中に埋れながら、自分は昔、春雨にぬれているこの墓を見て、感に堪えたということがなんだかうそのような心もちがした。と同時にまた、なんだか地下の樗牛に対してきのどくな・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・そうして又この町はずれの陰惨たる風物と同じような色の着物を着ていた。それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊声を一生懸命に迸らせた。するとその瞬間である。窓から半身を乗り・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・札幌の人はあたりの大陸的な風物の静けさに圧せられて、やはり静かにゆったりと歩く。小樽の人はそうでない、路上の落し物を拾うよりは、モット大きい物を拾おうとする。あたりの風物に圧せらるるには、あまりに反撥心の強い活動力をもっている。されば小樽の・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・たとえば自然の風物に対しても、そこには日毎に、というよりも時毎に微妙な変化、推移が行われるし、周囲の出来事を眺めても、ともすればその真意を掴み得ないうちにそれがぐん/\経過するからである。しかし観察は、広い意味の経験の範囲内で、比較的冷静を・・・ 小川未明 「文章を作る人々の根本用意」
・・・その事件を中心に昭和十年頃の千日前の風物誌を描こうという試みをふと空しいものに思う気持が筆を渋らせていたのだ。千日前のそんな事件をわざわざ取り上げて書いてみようとする物好きな作家は、今の所私のほかには無さそうだし、そんなものでも書いて置けば・・・ 織田作之助 「世相」
・・・しかし自分の眼底にはかの地の山岳、河流、渓谷、緑野、森林ことごとく鮮明に残っていて、わが故郷の風物よりも幾倍の色彩を放っている。なぜだろう?『月光をして汝の逍遙を照らさしめ』、自分は夜となく朝となく山となく野となくほとんど一年の歳月を逍・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ 富岡老人はそのまま三人の者の足音の聞こえなくなるまで対岸を白眼んでいたが、次第に眼を遠くの禿山に転じた、姫小松の生えた丘は静に日光を浴びている、その鮮やかな光の中にも自然の風物は何処ともなく秋の寂寥を帯びて人の哀情をそそるような気味が・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ が、それと共に、自然の風物もいまでは、痛く私の心を引く。絶対安静の病床で一カ月も米杉の板を張った天井ばかりを眺めて暮した後、やっと起きて坐れるようになって、窓から小高い山の新芽がのびた松や団栗や、段々畑の唐黍の青い葉を見るとそれが恐し・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
・・・四季その折々の風物の移り変りと、村の年中行事を、その時々にたのしめるようになったのは、私には、まだ、この二三年以来のことである。 村の年寄りが、山の小さい桐の樹を一本伐られたといって目に角立てゝ盗んだ者をせんさくしてまわったり、霜月の大・・・ 黒島伝治 「四季とその折々」
出典:青空文庫