・・・長く連なる廻廊を飛ぶにもあらず、踏むにもあらず、ただ影のままにて動く」「顔は」と髯なしが尋ねる時、再び東隣りの合奏が聞え出す。一曲は疾くにやんで新たなる一曲を始めたと見える。あまり旨くはない。「蜜を含んで針を吹く」と一人が評すると・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ミネルバの梟は、もはや暗い洞窟から出て、白昼を飛ぶことが出来るだろう。僕はその希望を夢に見て楽しんでいる。 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・「あそこの家の屋根からは、毎晩人魂が飛ぶ。見た事があるかい?」 そうなると、子供や臆病な男は夜になるとそこを通らない。 このくらいのことはなんでもない。命をとられるほどのことはないから。 だが、見たため、知ったために命を落と・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・子供の時、春の日和に立っていて体が浮いて空中を飛ぶようで、際限しも無いあくがれが胸に充ちた事がある。また旅をするようになってから、ある時は全世界が輝き渡って薔薇の花が咲き、鐘の声が聞えて余所の光明に照されながら酔心地になっていた事がある。そ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・と詠み、螽飛べば「螽飛ぶ」と詠む。これ尋常のことのごとくなれど曙覧以外の歌人には全くなきことなり。面白からぬに「面白し」と詠み、香もなきに「香に匂ふ」と詠み、恋しくもなきに「恋にあこがれ」と詠み、見もせぬに遠き名所を詠み、しこうして自然の美・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・もう飛ぶばかりでしょう」「ええ、もう僕たち遠いとこへ行きますよ。どの風が僕たちを連れて行くかさっきから見ているんです」「どうです。飛んで行くのはいやですか」「なんともありません。僕たちの仕事はもう済んだんです」「こわかありま・・・ 宮沢賢治 「おきなぐさ」
・・・ あれから、半年ばかりの間に、どれほどの苦労をしたのかしらんと、恭二は、ぼんやりと、無邪気な、子供が鳥の飛ぶのを驚く様な驚きを持って居た。 隣の間の夫婦は、こっちに声のもれないほどの低い声で、何やら話し会って居るらしい。折々、・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 後れ先立つ娘の子の、同じような洗髪を結んだ、真赤な、幅の広いリボンが、ひらひらと蝶が群れて飛ぶように見えて来る。 これもお揃の、藍色の勝った湯帷子の袖が翻る。足に穿いているのも、お揃の、赤い端緒の草履である。「わたし一番よ」・・・ 森鴎外 「杯」
・・・その早いこと飛ぶようである。しばらくして車輪が空を飛んで、町や村が遙か下の方に見えなくなった。ツァウォツキイはそれを苦しくも思わない。胸に小刀を貫いている人には、もう物事を苦しく思うことは無いものである。 馬車が駐まった。載せられて来た・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・野原の急な風……それはなかなか想像のほかで、見る間に草の茎や木の小枝が砂と一途にさながら鳥の飛ぶように幾万となく飛び立ッた。そこで話もたちまち途切れた。途切れたか、途切れなかッたか、風の音に呑まれて、わからないが、まずは確かに途切れたらしい・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫