島木さんに最後に会ったのは確か今年の正月である。僕はその日の夕飯を斎藤さんの御馳走になり、六韜三略の話だの早発性痴呆の話だのをした。御馳走になった場所は外でもない。東京駅前の花月である。それから又斎藤さんと割り合にすいた省・・・ 芥川竜之介 「島木赤彦氏」
・・・煤の面も洗おうし、土地の模様も聞こうし……で、駅前の旅館へ便った。「姉さん、風呂には及ばないが、顔が洗いたい。手水……何、洗面所を教えておくれ。それから、午飯を頼む。ざっとでいい。」 二階座敷で、遅めの午飯を認める間に、様子を聞くと・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 雨ぐらいの用意はしている。駅前の俥は便らないで、洋傘で寂しく凌いで、鴨居の暗い檐づたいに、石ころ路を辿りながら、度胸は据えたぞ。――持って来い、蕎麦二膳。で、昨夜の饂飩は暗討ちだ――今宵の蕎麦は望むところだ。――旅のあわれを味わおうと・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・朝、瀬多川で顔を洗い、駅前の飯屋で朝ごはんを食べると、もう十五銭しか残っていなかった。それで煙草とマッチを買い、残った三銭をマッチの箱の中に入れて、おりから瀬多川で行われていたボート競争も見ずに、歩きだした。ところが、煙草がなくなるころには・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・旅馴れぬ旅行者のように、早く駅前へ出ようとうろうろする許りである。顔見知りもいない。 よしんば知人に会うても、彼もまたキョロキョロと旅行者のような眼をしているのである。 いわば、勝手の違う感じだ。何か大阪に見はなされた感じなのだ。追・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・一つには、大阪で一番雑閙のはげしい駅前におれば、ひょっとして妻子にめぐり会えるかも知れないという淡い望みもあった。 ある日、いつものように駅前にうずくまっていると、いきなりぬっと横柄に靴を出した男がある。「へい」 と、磨きだして・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・ 夜が明けると、駅前の闇市が開くのを待って女学生の制服を着た女の子から一箱五円の煙草を買った。箱は光だったが、中身は手製の代用煙草だった。それには驚かなかったが、バラックの中で白米のカレーライスを売っているのには驚いた。日本へ帰れば白米・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ あくる日、柳吉が梅田の駅で待っていると、蝶子はカンカン日の当っている駅前の広場を大股で横切って来た。髪をめがねに結っていたので、変に生々しい感じがして、柳吉はふいといやな気がした。すぐ東京行きの汽車に乗った。 八月の末で馬鹿に蒸し・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・清三は駅前で自動車を雇った。為吉とおしかは、生れて初めての自動車に揺られながら、清三と並んで腰かけている嫁の顔をぬすみ見た。嫁は田舎の郵便局に出ていた女事務員に一寸似ているように思われた。その事務員は道具だての大きい派手な美しい顔の女だった・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・やがてバスは駅前の広場に止り、ぞろぞろ人が降りて、と見ると佐吉さんが白浴衣着てすまして降りました。私は、唸るほどほっとしました。 佐吉さんが来たので、助かりました。その夜は佐吉さんの案内で、三島からハイヤーで三十分、古奈温泉に行きました・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
出典:青空文庫