・・・ 遥かに瞰下す幽谷は、白日闇の別境にて、夜昼なしに靄を籠め、脚下に雨のそぼ降る如く、渓流暗に魔言を説きて、啾々たる鬼気人を襲う、その物凄さ謂わむ方なし。 まさかこことは想わざりし、老媼は恐怖の念に堪えず、魑魅魍魎隊をなして、前途に塞・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・盂蘭盆の夜が更けて、燈籠が消えた時のように、羽織で包んだ初路の墓は、あわれにうつくしく、且つあたりを籠めて、陰々として、鬼気が籠るのであったから。 鋏は落ちていた。これは、寺男の爺やまじりに、三人の日傭取が、ものに驚き、泡を食って、遁出・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・枕許に五六冊の本を置かなければ寝られないので、その晩も例の如くして、最早大分夜も更けたから洋燈を点けた儘、読みさしの本を傍に置いて何か考えていると、思わずつい、うとうととする拍子に夢とも、現ともなく、鬼気人に迫るものがあって、カンカン明るく・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・ 中の湯あたりから谷が迫って景色が峻しく荒涼な鬼気を帯びて来る。それが上高地へ来ると実に突然になごやかな平和な景色に変化する。鬼の棲家を過ぎて仙郷に入るような気がして昔の支那人の書いた夢のような物語を想い出すのである。シー・ピー・スクラ・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・また映画ではここでびっこの小使いが現われ、それがびっこをひくので手にさげた燭火のスポットライトが壁面に高く低く踊りながら進行してそれがなんとなく一種の鬼気を添えるのだが、この芝居では、そのびっこを免職させてそれを第二幕の酒場の亭主に左遷して・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・天プラや、すしなどがあんなに恐ろしい鬼気をもって人に迫り得るという事を始めてこの画から教えられる。 このままでだんだんに進んで行くところまで行ったら意外な面白いところに到達する可能性があるかもしれない。 中川紀元氏の今年の裸体は・・・ 寺田寅彦 「二科会その他」
・・・ が、その顔には、鬼気があふれていた。 それっきり、安岡は病気になってしまった。その五、六日後から修学旅行であった。 深谷は修学旅行に、安岡は故郷に病を養いに帰った。 安岡は故郷のあらゆる医師の立ち会い診断でも病名が判然・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 一応は和気藹々たるその光景は、主人公がほかならぬ画家であるということから、むしろ異様に孤独に、鬼気さえもはらんで忘れがたい感銘を与えられた。 芸術の道をゆくとき、画家にとって道づれは、今こうやってテーブルに何か雑然と無意味な賑やか・・・ 宮本百合子 「或る画家の祝宴」
・・・浅間の景色は美しいそうですが、この間鬼気が迫るような手紙を寄越して、私は吃驚して小包をこしらえてちょいちょいしたものを送りました。晩年の母の厭世的な、人の善意をそのままに受けられない心理が、寿江子に現われていて、体の悪さが推察されます。困っ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・すべての物語が鬼気せまるように書かれていた。けれども菊池寛の「俊寛」は鬼界ヶ島で坊主の衣をぬいだらスッカリ丈夫になって土地の女を女房にして子供も何人か生んで毎日勇しく大きな魚などを釣ったりしている姿で描かれている。 菊池寛は英国文学の根・・・ 宮本百合子 「“慰みの文学”」
出典:青空文庫