・・・ 家へ帰って夕飯の膳についても絵の事が心をはなれぬ。黄昏に袖無を羽織って母上と裏の垣で寒竹筍を抜きながらも絵の事を思っていた。薄暗いランプの光で寒竹の皮をむきながら美しい絵を思い浮べて、淋しい母の横顔を見ていたら急に心細いような気が胸に・・・ 寺田寅彦 「森の絵」
・・・雨の日の黄昏は知らぬまに忍び足で軒に迫ってはや灯ともしごろのわびしい時刻になる。家の内はだんだんにぎやかになる。はしゃいだ笑声などが頭に響いてわびしさを増すばかりである。 姉上に、少し心持ちが悪いからと、言いにくかったのをやっと言って早・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・また梅が散る春寒の昼過ぎ、摺硝子の障子を閉めきった座敷の中は黄昏のように薄暗く、老妓ばかりが寄集った一中節のさらいの会に、自分は光沢のない古びた音調に、ともすれば疲れがちなる哀傷を味った事もあった。 しかしまた自分の不幸なるコスモポリチ・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・その題も『黄昏』と命じて、発端およそ百枚ばかり書いたのであるが、それぎり筆を投じて草稿を机の抽斗に突き込んでしまった。その後現在の家に移居してもう四、五年になる。その間に抽斗の草稿は一枚二枚と剥ぎ裂かれて、煙管の脂を拭う紙捻になったり、ラン・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・あらで幾何か怪異の聯想を起すべき動物を詠みたるもの、獺の住む水も田に引く早苗かな獺を打し翁も誘ふ田植かな河童の恋する宿や夏の月蝮の鼾も合歓の葉陰かな麦秋や鼬啼くなる長がもと黄昏や萩に鼬の高台寺むさゝびの小鳥喰・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ そしていつか薄明は黄昏に入りかわられ、苔の花も赤ぐろく見え西の山稜の上のそらばかりかすかに黄いろに濁りました。 そのとき私ははるかの向うにまっ白な湖を見たのです。(水ではないぞ、また曹達や何かの結晶だぞ。いまのうちひどく悦んで・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・ そして薄明が降り、黄昏がこめ、それから夜が来ました。 まなづるが「ピートリリ、ピートリリ。」と鳴いてそらを通りました。「まなづるさん。今晩は、あたし見える?」「さやう。むづかしいですね。」 まなづるはあわたゞしく沼・・・ 宮沢賢治 「まなづるとダァリヤ」
・・・草木が宇宙の季節を感じるように、一日に暁と白昼と優しい黄昏の愁があるように、推移しずにはいません。いつか或るところに人間をつき出します。それが破綻であるか、或いは互いに一層深まり落付き信じ合った愛の団欒か、互いの性格と運とによりましょが、い・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・ 秋の黄昏に廃趾の番をしていた兵士たちの肩のあたりが淋しそうである。ショウモンの砲台にはヴェルダン司令部があった。 飲料の貯水池が砲台の奥にあって、撃破されたコンクリートの天井が黒い澱み水の上に墜ちかかっているのが、ランターンのちら・・・ 宮本百合子 「女靴の跡」
千世子は大変疲れて居た。 水の様な色に暮れて行く春の黄昏の柔い空気の中にしっとりとひたって薄黄な蛾がハタハタと躰の囲りを円く舞うのや小さい樫の森に住む夫婦の「虫」が空をかすめて飛ぶのを見る事はいかにも快い・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
出典:青空文庫