一 小野の小町、几帳の陰に草紙を読んでいる。そこへ突然黄泉の使が現れる。黄泉の使は色の黒い若者。しかも耳は兎の耳である。 小町 誰です、あなたは? 使 黄泉の使です。 小町 黄泉の使! で・・・ 芥川竜之介 「二人小町」
一 むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい桃の木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地の底の黄泉の国にさえ及んでいた。何でも天地開闢の頃おい、伊弉諾の尊は・・・ 芥川竜之介 「桃太郎」
・・・ 戸々に立ち働いている黒い影は地獄の兵卒のごとく、――戸々の店さきに一様に黒く並んでるかな物、荒物、野菜などは鬼の持ち物、喰い物のごとく、――僕はいつの間に墓場、黄泉の台どころを嗅ぎ当てていたのかと不思議に思った。 たまたま、鼻唄を・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 花を尋ねたり、墓を訪うたり、美しい夢ばかり見ていたあの頃の自分には、このイタリア人は暗い黄泉の闇に荒金を掘っている亡者か何かのように思われた。とにかく一種侮蔑の念を抑える訳に行かなかった。日露戦争の時分には何でもロシアの方に同情して日・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・このへんを歩いている人たちの大部分は、西洋人でも日本人でも、男でも女でも、みんなたった今そこで生命の泉を飲んできたような明るい活気のある顔をしている中で、この老婦人だけがあたかも黄泉の国からの孤客のように見えるのであった。「どうかするんじゃ・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・春浪さんも唖々さんも共に斉しく黄泉の客となった。二十年の歳月は短きものではない。世の中も変れば従って人情も変った。 大正十五年八月の或夜、僕は晩涼を追いながら、震災後日に日にかわって行く銀座通の景況を見歩いた時、始めて尾張町の四辻に近い・・・ 永井荷風 「申訳」
出典:青空文庫