・・・学生時代にはベエスボールの選手だった、その上道楽に小説くらいは見る、色の浅黒い好男子なのです。新婚の二人は幸福に山の手の邸宅に暮している。一しょに音楽会へ出かけることもある。銀座通りを散歩することもある。……… 主筆 勿論震災前でしょう・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・ 仁右衛門は黒い地平線をすかして見ながら、耳に手を置き添えて笠井の言葉を聞き漏らすまいとした。それほど寒い風は激しい音で募っていた。笠井はくどくどとそこに行き着く注意を繰返して、しまいに金が要るなら川森の保証で少し位は融通すると付加える・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・そして黒い上衣と光るシルクハットとのために、綺麗に髯を剃った、秘密らしい顔が、一寸廉立った落着を見せている。 やはり廉立ったおちつきを見せた頭附をして検事の後の三人目の所をフレンチは行く。 監獄の廊下は寂しい。十五人の男の歩く足音は・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・明別荘の黒い窓はさびしげに物音の絶えた、土の凍た庭を見出して居る。その内春になった。春と共に静かであった別荘に賑が来た。別荘の持主は都会から引越して来た。その人々は大人も子供も大人になり掛かった子供も、皆空気と温度と光線とに酔って居る人達で・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・桜山の背後に、薄黒い雲は流れたが、玄武寺の峰は浅葱色に晴れ渡って、石を伐り出した岩の膚が、中空に蒼白く、底に光を帯びて、月を宿していそうに見えた。 その麓まで見通しの、小橋の彼方は、一面の蘆で、出揃って早や乱れかかった穂が、霧のように群・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・右手な神社のまた右手の一角にまっ黒い大石が乱立して湖水へつきいで、そのうえにちょっとした宿屋がある。まえはわずかに人の通うばかりにせまい。そこに着物などほしかけて女がひとり洗濯をやっていた。これが予のいまおる宿である。そして予はいま上代的紅・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・あたまを挙げてあたりを見ると、独り兵の這いさがるんかと思た黒い影があるやないか? 自分もあの様にして這いさがろ思てよく見ると、うわさに聴いた支那犬やないか? 戦争の過ぎた跡へかけ付けて、なま臭い人肉を喰う狼見た様な犬がうろ付いとる間で、腰、・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・醒雪はその時分々たる黒い髯を垂れて大学生とは思われない風采であった。緑雨は佐々弾正と呼んで、「昨日弾正が来たよ、」などと能くいったもんだ。緑雨の『おぼえ帳』に、「鮪の土手の夕あらし」という文句が解らなくて「天下豈鮪を以て築きたる土手あらんや・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・そう思って見ている内に、突然自分の影が自分の体を離れて、飛んで出たように、目の前を歩いて行く女が見えて来た。黒い着物を着て、茶色な髪をして白く光る顔をして歩いている。女房はその自分の姿を見て、丁度他人を気の毒に思うように、その自分の影を気の・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・と、のぶ子は黒い、大きな目をみはって、お母さまにききました。「幾日も、幾日も、船に乗ってゆかなければならない外国なんだよ。」 こう、お母さまがいわれたときに、のぶ子は思わず、目を上げて、空の、かなたを見るようにいたしました。「ほ・・・ 小川未明 「青い花の香り」
出典:青空文庫