源義仲 (みなもとのよしなか) の通称。
出典:gooニュース
「木曽義仲」平家都落ち実現後に法皇襲撃のなぜ? 後白河法皇との対立が深まっていった背景
平家がいたときよりもひどい状況に 木曽義仲ら源氏の軍勢が上洛してきた当初から、京中におけるその乱暴狼藉が問題となってきた。寿永2(1183)年7月下旬に義仲が後白河法皇から平家追討を命じられた際にも併せて「京中の狼藉を停止せよ」との仰せがあった(『玉葉』)。
木曽義仲に思いはせ、大津でガイドツアー 大河で注目、墓や合戦の地巡る
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場した木曽義仲ゆかりの地を巡るガイドツアーが7日、大津市の石山、膳所の両駅周辺であった。歴史ファンが義仲や側近の墓、合戦の舞台を巡り、往時の姿に思いをはせた。 平氏一門を破って上洛(じょうらく)後、源頼朝に敗れた義仲の生涯に注目が集まる中、義仲との縁をPRしようと、びわ湖大津観光協会が企画。4月29日から10日間催している。
「木曽義仲」平家都落ちを果たしたのに没落した訳 後白河法皇との対立を引き起こしたある行動
平清盛の死後、破竹の勢いで進撃した木曽義仲(源頼朝の従兄弟)は、「平家都落ち」を実現します。にもかかわらず、その後、後白河法皇と対立することになりました。その背景には何があったのでしょうか。歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。
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