・・・中にはいるとそのために、すっかり腹が空くほどだ。そしてじっさいオツベルは、そいつで上手に腹をへらし、ひるめしどきには、六寸ぐらいのビフテキだの、雑巾ほどあるオムレツの、ほくほくしたのをたべるのだ。 とにかく、そうして、のんのんのんのんや・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・程なく、彼女は、室の内側に開く扉のかげにはりついたような形をして首だけ彼に向けながら「依岡様からお電話でございます。あの――」 何故か、れんはこの時総入歯の歯を出してにっと笑った。「旦那様の御加減はいかがでございますかと仰云って・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・窓へ手を掛けて押すとなんの抗抵もなく開く。その時がさがさと云う音がしたそうだ。小川君がそっと中を覗いて見ると、粟稈が一ぱいに散らばっている。それが窓に障って、がさがさ云ったのだね。それは好いが、そこらに甑のような物やら、籠のような物やら置い・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・ぱッと音立てて朝開く花の割れ咲くような笑顔だった。赤児が初めて笑い出す靨のような、消えやすい笑いだ。この少年が博士になったとは、どう思ってみても梶には頷けないことだったが、笑顔に顕れてかき消える瞬間の美しさは、その他の疑いなどどうでも良くな・・・ 横光利一 「微笑」
・・・その度にびっくりして目を開く。目を開いてはこの気味の悪い部屋中を見廻す。どこからか差す明りが、丁度波の上を鴎が走るように、床の上に影を落す。 突然さっき自分の這入って来た戸がぎいと鳴ったので、フィンクは溜息を衝いた。外の廊下の鈍い、薄赤・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・その時に、誰いうともなく、蓮の花の開くときに音がする、ということが話題になった。一つ試してみようじゃないか、というわけで舟を蓮の花の側に止めさせて、今にも開きそうな蕾を三人で見つめた。その蕾はいっこう動かないが、近辺で何か音がする。蓮の花の・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫