・・・男は、よわい既に不惑を越え、文名やや高く、可憐無邪気の恋物語をも創り、市井婦女子をうっとりさせて、汚れない清潔の性格のように思われている様子でありますが、内心はなかなか、そんなものではなかったのです。初老に近い男の、好色の念の熾烈さに就いて・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・私は先日の手紙に於いて、自分の事を四十ちかい、四十ちかいと何度も言って、もはや初老のやや落ち附いた生活人のように形容していた筈でありましたが、はっきり申し上げると三十八歳、けれども私は初老どころか、昨今やっと文学のにおいを嗅ぎはじめた少年に・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・紋服の初老の大男は、文士。それよりずっと若いロイド眼鏡、縞ズボンの好男子は、編集者。「あいつも、」と文士は言う。「女が好きだったらしいな。お前も、そろそろ年貢のおさめ時じゃねえのか。やつれたぜ。」「全部、やめるつもりでいるんです。」・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・姉というのはもう、初老のあっさりしたおかみさんだった。 何せ、借りが利くので重宝だった。僕は客をもてなすのに、たいていそこへ案内した。僕のところへ来る客は、自分もまあこれでも、小説家の端くれなので、小説家が多くならなければならぬ筈なのに・・・ 太宰治 「眉山」
・・・これだけの通行券を握って私は初老の関所を通過した。そしてすぐ眼の前にある厄年の坂を越えなければならなかった。 厄年というものはいつの世から称え出した事か私は知らない。どういう根拠に依ったものかも分らない。たぶんは多くの同種類の云い伝えと・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・エピクロス派の耽美家が初老を越すと、相手の女の情欲を芸術的に研究しようと云う心理的好奇心より外には、もうなんの要求をも持っていない。これまでのこの男の情事は皆この方面のものに過ぎなかった。それがもう十年このかたの事である。 ピエエル・オ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・それは、谷崎氏のように精力的作家でも、日本の作家は初老前後となれば落ちつくさきはやっぱりここかという失望である。 佐藤春夫氏、谷崎潤一郎氏は深いきずなによって結ばれている二人の作家であるが、作家としての性質は違った二つのものであると思っ・・・ 宮本百合子 「冬を越す蕾」
・・・日常生活を自分に律したり、義理人情に溺れ込む快さに我から溺れ込むことを、人民の心のあたたかみにとけ合うことと思いちがいしたり、初老に近づく日本人の或る感情と民衆性とが危くも縺れあっていると思わせるところさえあるのである。 これに対する態・・・ 宮本百合子 「文学の大衆化論について」
・・・ 庄兵衛はかれこれ初老に手の届く年になっていて、もう女房に子供を四人生ませている。それに老母が生きているので、家は七人暮らしである。平生人には吝嗇と言われるほどの、倹約な生活をしていて、衣類は自分が役目のために着るもののほか、寝巻しかこ・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
出典:青空文庫